アルムの書斎

【ざっくり世界史解説】

chapter10

〜賢く逃げるか、
覚悟して戦うか〜

ざっくり世界史解説

どうも、アルムです。

ということで今回は、【ざっくり世界史解説】のchapter10「~賢く逃げるか、覚悟して戦うか~」ということで、中国史の後編を解説していきたいと思います。

いよいよ地域史編の最後になりますね。

まずは、ここまで見てくださっている方々、そして今回初めて見てくださった方も、本当にありがとうございます。

「世界史」っていう、あまり面白くなさそうなテーマを選んだ、拙い僕のコンテンツをいつも見てくださっている方々に、感謝しています。

投稿するたびに、「もっと上手くできたんじゃないか」とか、色々後悔もしてたんですけど、それでも見てくれる方がこんなにたくさんいて下さって、本当に嬉しいです。

今後はもう少しやり方を工夫して、より楽しんでいけるようなコンテンツづくりをしていこうと考えてるので、ぜひ、楽しみにしていてください。

今回の中国史の後半も、できるだけ分かりやすく解説していこうと思います。ぜひ最後まで楽しんでいってください。

前半の中国史解説をまだ見てないという方は、ぜひそちらから見ていただけると嬉しいです。

それでは、早速いきましょう。

前回は、長命王朝を築いた「唐」が、貴族や大寺院による土地の横取りと、皇帝が美女に溺れ過ぎたことで滅亡した、という話までしました。今回はその続きになります。

唐王朝が反乱によって滅亡すると、中国はしばらく混乱状態が続くんですが、その混乱を鎮めて再び中国に秩序をもたらしたのが、「趙匡胤」という人物です。新しい統一王朝「宋」を建国して、皇帝に即位します。

彼はもともと皇帝になる気はなかったんですが、弟に「兄上が皇帝やんないなら、ここで殺して僕も死ぬ!」というはた迷惑な脅しに押されて、渋々皇帝に即位したというエピソードがある人物なんですね。これまでの皇帝は、自分で望んで皇帝やってたわけですから、個性が大部違います。

そんな皇帝が行った政治にも、その個性は滲み出ています。

まず、趙匡胤は国を治めるにあたって、唐の時代に存在した「節度使」を廃止して、今までの科挙に、「皇帝による面接試験」を加えたことで、より優れた人材を採用しようとしました。

武力による統治ではなく、学問の力によって国を治めようとしたわけですね。

次に、敵勢力への対応です。

「節度使」を廃止したことで、軍隊は皇帝の元へ集まったので、国全体としての軍事力は低下してしまいます。これによって異民族の侵入が活発なり、北方民族からなる「遼王朝」が宋を圧迫してきていました。

これに対して宋が行った解決策が、「金品で平和を買う」というものです。

遼王朝に対して、「宋は、毎年絹20万匹と銀を約3トン贈る代わりに、遼王朝は宋への攻撃を止める」という契約を結ぶことで、戦争をなるべく起こさないよう努めたんです。

これまでの王朝なら、「敵勢力が襲ってくるなら、容赦なく迎え撃つ」というスタンスを取ることがほとんどだったんですが、宋王朝の場合はそうではなく、「平和を金で買ってでも、戦争はしない」というスタンスだったんですね。こういった「超現実主義」の政策を行ったことで、宋の時代は民衆にとっても自由で暮らしやすい国家になりました。

ところが、「平和を金で買う」政策は宋の財政を徐々に圧迫させていきます。

事態を危惧した官僚は、財政難の改善と富国強兵を図る改革を実施したんですが、変化を嫌う地主や商人たちに反対されて、国内では、改革に賛同する勢力と、これまでのやり方を貫きたい勢力とで対立が起きるようになってしまいました。

そんな諍いが起きていた宋王朝は、ついにある事件をキッカケに崩れていきます。それが、「靖康せいこうの変」と呼ばれるものです。

これは、遼王朝のさらに北側から、女真族の国家「金」が誕生して、宋に向かって勢いよく迫ってきたことで、宋の皇帝一家が金に捕らえられてしまったという事件です。

宋はこれで滅亡寸前にまでなるんですが、皇族の生き残りが金の攻撃から生き延びたことで、南で新たに「南宋」という王朝を建国します。

軍事の対策をしなかったことで已む無く南に逃げ延びた南宋では、「金と戦うべきだ!」とする主戦派と、「勝つ見込みはないから戦争を回避しよう!」とする和平派に分かれていきます。

主戦派の代表だった「岳飛がくひ」という人物は金との戦いに何度も勝利していったことで人気を集めていったんですが、和平派の代表だった「秦檜しんかい」という人物は、南宋が全面戦争に突入することを恐れて、岳飛に謀反の罪を被せて、殺してしまうんですね。

秦檜はその後、前身の宋王朝と同じく「平和を金で買う」政策を実施して、「勢いのある金とは戦争をしない!」というスタンスを最後まで貫きました。

現在の中国では、この歴史について、金と最後まで戦った岳飛は「英雄」として称賛されているのに対し、秦檜は「国を売った悪者」として評価されているようです。

今回の解説の参考文献の著者・山崎先生は、この評価について、

「岳飛には悪いが、私自身は平和を金で買って、南宋の滅亡を回避させた秦檜は正しい判断をしたと思う」

と述べています。

僕もこの意見には賛成です。ただ、「これは時と場合による側面がある」ということを付け加えたいと思っています。

中国最高の戦略書といわれる『孫子』には、「戦わずして勝つことが一番だ」という主張があります。

「戦争というのは国の一大事であるから、無闇に犠牲を出して国を滅亡させてしまっては元も子もない。故に、敵の情報を調べ上げて、「これはどう考えても勝ち目がない」と判断したならば、戦争を回避することを第一に考えるべきだ」

これが『孫子』における最も重要な考え方です。

ところが、

「どうしても戦わざるを得ない状況になった時は、武器を取り、できるだけ自分達が戦争を有利に進められるよう努める必要がある」

とも書かれています。つまり、戦争そのものを全否定しているわけではなく、状況次第では戦わなければならないと言っているんです。

僕が主張したいのもまさにこの点なんですね。

「平和を金で買う」という戦略はすばらしいものと評価した上で、「じゃあ、どんな時でもそうした方がいいのか?」というと、それは違うと僕は思います。例えば、自分の国が敵に攻められそうになっていて、話し合いではどうしても解決しないと判断した時は、武器を取って戦うことも重要です。

これは身近な例でもそう言えます。例えば、自分が相手から何かしらの嫌がらせを受けていて、「やめろ」と言っても聞いてくれなかった場合は、嫌がらせの証拠を捉えて報告するか、人に相談して撲滅するみたいな対処も時には必要です。同じく嫌がらせでやり返すのは最悪ですが、相手をできるだけ傷つけない形でやり返す分には問題ないと思います。そうしないと、嫌がらせはエスカレートしてしまいますからね。

「戦わないことが大事」という意見が一人歩きしすぎると、結果的に自分の被害が大きくなってしまうことは往々にしてあります。なので、回避するのを最優先した上で、「やむを得ない場合は戦うことも覚悟する」という姿勢が大事だと僕は思います。

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さて、南宋と金の和平によってしばらく安定していた中国でしたが、13世紀になると、チンギス=ハン率いるモンゴル帝国が、中国全土に進出してきます。

この頃のモンゴル帝国がすごかったのは、軍事組織のあり方です。遊牧民の兵士を1000人ずつに編成して、通常は遊牧を行い、戦う時は軍事組織として機能させるという「千戸制」という仕組みを活用したことで、支配領域を一気に拡大させていきました。

中央アジアから中国北西に至る国々を次々に支配していったチンギス=ハンは、降伏した国には寛大な処置をし、歯向かう国は容赦なく虐殺するという、二面性を持った人間だったとされています。

大帝国になったモンゴルは、その後チンギス=ハンの息子たちに引き継がれることになるんですが、支配領域があまりに広くなってしまったことから、一人で統治するのが難しくなっていきます。そこで、モンゴル帝国を4つの小国に分離させて、それぞれの統治を孫たちに任せていくようになるんですね。

この4つに分かれた小国のうちの一つとして、中国の地域を統治したのが、「元」という国です。チンギス=ハンの孫である「フビライ=ハン」によって建国されました。

「元」といえば、鎌倉時代に日本を侵攻してきた「元寇」が有名ですね。日本史においては2度にわたって攻め入られましたが、暴風雨による被害で2回とも撤退した歴史があります。

実は「元寇」を受けたのは日本だけじゃなく、ベトナムでも侵攻があったんですね。

日本の元寇とほぼ同時期に、ベトナムにも軍隊を派遣しています。ところが、この侵攻も、暴風雨の影響により撤退した記録が残っているんですね。つくづくフビライ=ハンは天気運がない人物だったんでしょう。

また、元の時代は東西の交流も盛んに行っていて、例えば、フランスの旅行家マルコ=ポーロが、フビライ=ハンに数十年仕えたのち、故郷に戻って『世界の記述』という著作を残していたり、宋の時代に発達した「羅針盤・印刷術・火薬」の三大発明が西アジアからヨーロッパへ伝わったりと、文化の交流が盛んだったとされています。

そんな、隆盛を誇った元でしたが、ある事件をきっかけに崩壊へと進んでいきます。それが、「チベット仏教への狂信」です。

チベット仏教は、装飾の多い寺院が特徴で、皇帝たちはチベット仏教に耽ったことで、豪華な寺院を次々に建てていきました。それが影響して、財政不振に陥るんですね。

これに対策するため行った政策というのが、「交鈔こうしょう」というものです。これは簡単にいうと、「お金をとにかく刷りましょう」という政策です。

知っての通り「お金」というのは、「価値の代替手段」に過ぎません。すでに流通しているお金をより円滑に流通させることで、経済は発達していきます。そのため、財政不振になった国がまず考えるべきは、税率を下げたり、公共事業を増やすなどして、「民衆がより働きやすく、消費のハードルを下げる」ことが重要です。「紙幣の量を増やす」のも当然そのうちの一つではありますが、「流通させる」というポイントを押せておかないと、何の意味もありません。

現代の社会では当たり前の話なんですが、この仕組みをよく理解していなかったことで、元はお金を刷り過ぎてインフレを起こしてしまい、経済は大混乱してしまいました。

この混乱に乗じて、それまで虐げられてきた漢民族が反乱を起こしたことで、元王朝は滅亡することになります。

さて、元が倒れて、その後に中国にできた統一王朝が、「明」という王朝です。皇帝に即位したのは、漢民族による反乱を率いていた「朱元璋しゅげんしょう」という人物です。即位ののち、「洪武帝」と呼ばれるようになります。

「明」といえば、現在の中国がまさに目指している王朝なので、ここはぜひ知っておいていただきたいです。

洪武帝は、元々は貧しい農家の出身だったのですが、元に対する反乱が起こると優れた統率力を発揮し、南京一帯を攻略していきました。その後、自ら皇帝を名乗り、「明」を建国したという経緯があります。

彼は貧しい農民から皇帝にまでのし上がった人物なので、ナポレオン同様、能力が並はずれて優れていました。新しく作った国を自分の思いのまま動かすために、唐の時代にできた三省のうちの一つを廃止して、六部を皇帝の直属にします。

これを現代で例えると、総務大臣、財務大臣、文部科学大臣などの数々の大臣を一人で兼任して、各省庁への命令を直接出すようなものです。それほどまで洪武帝は、能力の高い人物だったんですね。

ところが、彼は自分が貧しい農民出身であることに、非常にコンプレックスを持っていた人物でもあったようで、疑い深く、暗い性格の持ち主であったといわれています。その証拠に、彼は、功績があった大臣はいずれ自分の地位を脅かすライバルになるかもしれないと危惧して、秘密警察を使ってライバルを拷問したり死刑にしたりと、たびたび数万人規模の粛清を行っていました。名前は「明」としつつも、かなり「暗」い時代でもあったようです。

現在の中国もまさにこの形と似ている傾向があります。社会主義市場経済を導入して、テクノロジーを成長させたことで、世界第2位のGDPを誇る経済大国へと押し上げていきました。国の政策も中国共産党の一党支配なので、変化の激しい現代社会においては、政策を素早く実行できるというところが、かなり利点になっているようです。

その一方で、顔認証カメラを中国全域に配置しつつ、「芝麻信用」という信用スコアを国民全員につけることで、国内を監視する社会を作り上げていたり、言論統制を強めて、「中国共産党を批判するような表現活動は処罰の対象にする」など、緊張感が拭えない側面があることも事実です。

このように、現在の中国と明王朝は、似通ってるところがすごく多いのです。今後の中国を動きを知る上でも、「明」の時代を知っておくとかなり参考になるかもしれません。

明の黄金期は、3代目皇帝の「永楽帝」の時代に訪れます。彼は、洪武帝の頃に廃止された三省のうちの一つを、「内閣大学士」という新しい役職の置き換えます。これは、皇帝の秘書官のような役職で、皇帝の相談役として政治を支える役目を担います。

洪武帝の頃は六部を直属にしていましたが、すべての書類を皇帝一人で決裁するのはやはり大変です。そこで、重要な案件以外は全て内閣に処理を任せることで、安定した統治ができるようになります。現在の日本における「内閣」という組織も、実はこの「内閣大学士」が語源です。

他にも、宦官かんがんでイスラーム教徒だった「鄭和ていわ」という人物に、大規模艦隊を率いてインド洋からアフリカ東岸までを遠征させたことで、10数カ国を属国にすることに成功し、各国の王や部族の長を家臣として、明に連れ帰るということもしています。

そんな繁栄を誇った明でしたが、14代皇帝の「万暦帝」に時代になると、徐々に翳りが見えてきます。

万暦帝の特徴を簡単にまとめると、「サボりと引きこもり」です。

彼は皇帝に即位しておきながら、その期間の大半は朝廷に顔を出さないという人物でした。即位した直後、優秀な補佐役として「張居正ちょうきょせい」という人物を登用すると、最初はやる気のあった皇帝も、その仕事を徐々に補佐役に任せてしまうようになったんですね。

また、張居正自身も皇帝に対してかなり口うるさかったらしく、「ああしなさい」「こうしなさい」と事あるごとに叱っていたそうです。

万暦帝はこれを受けて仕事をすっかり放り出してしまい、贅沢と女性に溺れて二度と政治を顧みることは無くなってしまいました。

現代の教育問題にも通じる面白い歴史ですよね。親や先生が子供に対して何もかも口を出してしまうと、子供はそれに疲れて何もやる気も起こさなくなってしまうというのは、現代ではよくあります。

「口を出すことが悪い」とまでは言いませんが、子供の意思を尊重して自由にさせることは、歴史から見てもやはり重要なんでしょうね。

そうして万暦帝がサボっている間に、明は度々戦乱に巻き込まれて、軍事費のかさみで財政難に見舞われます。

対策も思うように取れなかったことで、遂に各地で反乱が勃発してしまい、北方からも女真族が新たに「清」を建国して、万里の長城から攻めてきたことで、お手上げになった明は遂に滅亡してしまいます。

こうして中国は、最後の王朝となる「清王朝」の時代に入ります。

明の滅亡より少し前に、北方の方で新たに建てられた「清王朝」は、ツングース系の「女真族じょしんぞく」という民族が中心となった王朝です。ツングースというのは、主にシベリア東部や中国東北部に分布する民族のことです。

清王朝は、約300年もの間存続した、唐に次ぐ長命王朝でした。

なぜ清が長く続いたのか?ということですが、これには「中国史に残る名君が、建国以来6人も続いた」ことが大きく関係しています。広大な領土を一人のトップが治めるというやり方を続けてきた中国では、皇帝の人格が国の盛衰を左右と言っても過言じゃありません。清王朝は、この「人格」が優れている皇帝が多かったということです。

初代皇帝に即位したのは、「ヌルハチ」という人物でした。彼の在位中、最も重要な政策として挙げるべきは、「八旗制」と呼ばれる制度です。これはどういうものかというと、「軍隊を8つの色に分けて、部隊ごとに違う色の旗を持たせる」というもの。要するに「色分け」です。

例えば、戦争をテーマにしたアニメや映画では、どこにどの部隊がいるのか把握するために、色のついた煙弾を使ったり、いろんな色の腕章をつけたりしていることがあります。この八旗制もそれと似たようなもので、指揮官が「〇〇色の部隊集まれ!」と言うと、その色の旗を持っている部隊が集まるようになります。これによって、兵隊の動員をかけるときに便利なのに加えて、戦場での混乱も避けやすくなります。

現代の僕らの感覚からすると、割と単純な制度にも思えるんですが、それまでは「色で部隊を識別する」という考えがなかったため、当時としては非常に新しかったんですね。これによって清は、今まで以上に軍隊の統率が取れるようになっていきました。

3代目の皇帝である「順治帝」に時代になると、いよいよ万里の長城を超えて一気に中国国内になだれ込んで行きます。明を倒したばかりの「李自成」という人物を反乱によって倒したことで、清は正式に明王朝の後継国家となりました。

この頃の清の政策は「アメとムチ」をうまく使い分けています。

ムチの政策で言うと、女真族の風習であった「辮髪べんぱつ」という、後ろ髪を編み込んで、その周りを剃り上げる髪型を、漢民族の男子全員に強制するなどの政策を行います。

一方、アメの政策では、中国内の明の役人をそのまま採用して、自分達の民族と分け隔てなく同じ地位に就かせるということもしました。こうして清王朝は、漢民族ともうまくバランスをとりながら統治を続けていきます。

そして、清が最盛期を築いたのは、4代目の「康熙帝こうきてい」の時代です。

中国の皇帝史上最長の61年の在位を誇り、中国の歴代最高の名君とされています。

ロシアのピョートル1世から尊敬されたり、フランスの「太陽王」ルイ14世からも、まるでファンレターのような手紙を受け取るなど、「名君中の名君」だったそうです。

そんな彼が残した功績は非常に多岐に渡ります。

まず、ずっと目星をつけていた台湾の征服に成功し、中国南部を統治していきます。

また、モンゴル方面への進出によって、ロシアと国境を接するようになったため、ロシアの皇帝ピョートル1世と「ネルチンスク条約」を結び、互いの勢力範囲を定めることにも貢献しました。

この条約の締結において重要なのは、それまで中国が結ばれてきた不平等条約とは違う、「完全な対等の立場による条約」であったことです。19世紀に一連の不平等条約を結ばされていた中国にとって、この条約は、中国がヨーロッパ国家と初めて対等の立場で結ぶことができた条約だったので、中国の世界に対する影響力強化に寄与した大きな功績といえます。

国内の統治については、「税金を安くする代わりに、確実に徴収して漏れがないようにする」という改革を行うなどしたことで、結果的に税収を増やすことにも成功し、好循環の経済を作り上げるなどの実績も残しています。

また、康熙帝は学問の奨励も非常に熱心で、現在の漢字辞典のもとになる「康熙字典」の編纂を行って、儒学や天文学、地理学など、あらゆる教養を身につけたそうです。

国内外の統治だけじゃなく、文化的な功績まで残した康熙帝は、常日頃から読書を欠かしませんでした。あまりに読書しすぎて、勉強中に血を吐いてしまうこともあったそうです。

体調を崩すほどにまで勉強するのは流石に危険ですが、それでも国を治める皇帝として、さまざま知見に触れて、最後まで立派な皇帝であろうとした康熙帝の生き様は、現代の僕達が最も参考にすべきものだと思います。読書が苦手な方にとっては少し気負いしてしまうような話かもしれませんが、自分が興味を持った分野だけでもまずは学んでみるのが、社会を上手に生きる人格を形成する上で、非常に大切なことだと僕は思います。

こうして世界史解説をしているのも、「もっと多くの人に学ぶ楽しさを知ってもらいたい」と思って始めたものです。康熙帝のように、常に学びを欠かさない人間でありたいと僕も思うので、皆さんもこの放送をキッカケに、何か新しいことを学んでみてくれれば嬉しいです。

ということで、今回は以上になります。

【ざっくり世界史解説】最後まで見てくださり、本当にありがとうございました。

堅苦しい内容も多くて、皆さんに少しでも届くようにするにはどうすればいいかを常に考えていたので、分かりづらいところもたくさんあったかと思うんですが、それでも投稿するたび、見てくださってる方が1人でもいてくれることに、とても感謝しています。本当にありがとうございます。

世界史の解説は一旦ここで区切ろうと思いますが、皆さんにより楽しんでもらえるよう、エンタメ要素を増やした形で、改めて解説していきたいと思うので、その時はぜひ見ていただけると嬉しいです。

また今後は、科学史とか、人類史のような、いろんな分野の歴史も解説していこうと思います。他にも健康とか、金融とか、政治・経済など、より身近な学問の解説もしていきたいと思うので、ぜひ楽しみにしていてください。コンテンツの長さも、今よりもう少しコンパクトにして、もう少し気軽に学べるよう色々工夫していこうとも思います。

あんまり長いと疲れると思うので。

というわけで、ここまで聞いてくださった皆様。最後までご視聴本当にありがとうございました。

また次回もお楽しみに。

それではまた。

参考文献:『一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書』

一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書 公立高校教師YouTuberが書いた (刊:SBクリエイティブ) 世界史の教科書 amazonで見る
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