アルムの書斎

【ざっくり世界史解説】

chapter2

〜エーゲ文明から、
アレクサンドロスまで〜

ざっくり世界史解説

どうも、アルムです。

ということで今回は「ざっくり世界史解説」のChapter2、古代ヨーロッパの歴史について解説していきたいと思います。

前回はChapter1、人類の出現の文明の誕生について解説しました。ざっと内容お伝えすると、それまで人類の起源がヨーロッパにあるとされていたところから南アフリカで突如、人類最古の化石が発見された。それがアウストラロピテクスであり、人類の祖先のうち最も古いグループに属する者たちを「猿人」と呼ぶと。
人類はその後、原人、旧人、新人、現生人類へと姿形を変化させていき、その過程で言語の使用を始めたり、火を使い出したり、打製石器を徐々に発達させていったと。約一万年前には温暖化に合わせて狩猟最終から農耕へとライフスタイルを変えていき、結果、乾燥地帯をはじめとして都市が発達していったと。いうところまでを解説しました。

今回はその続きということで、ヨーロッパ、中東、インド、中国の四つの地域の歴史を順に解説していくんですが、まずは古代ヨーロッパの歴史から解説していきます。全三パートに分けて解説していこう思いまして、今回はそのパート1、「〜エーゲ文明からアレクサンドロスまで〜」を解説していきます。みなさんご存知アレクサンドロスやローマ帝国、キリスト教など「the・世界史」の要素がたくさん詰まった古代ヨーロッパはめっちゃ面白いので、是非最後まで聴いていただければと思います。それでは早速いきましょう。

各地域の歴史を知る上で、是非みなさんに知っていただきたいことがあります。それが「地域の個性」です。先ほど上げた四つの地域はそれぞれ国土の面積持ちがければ、気候も違う。人種も違います。なので、それぞれの地域ならではの個性を持つようになるんですね。これを是非抑えていただきたいんです。ではヨーロッパの個性とは何か?それは、「多様」と「統一」です。一見、相反するこの二つなんですが、現在のヨーロッパを考えて見てください。ヨーロッパには異なる文化をもつ国がたくさん存在していますよね。イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スペインといった有名な国はもちろん、ノルウェーのような北欧諸国もあるし、ギリシアのように古代遺跡が有名な国もありますよね。こういう多様性に満ちた特徴がある一方で、「EU」という連合を作って、通貨を統一しようだとか、国境を自由に移動できるようにしようなんていう統一の動きを見せる側面もあるわけです。この多様と統一の個性がどのように育まれていったのか?その答えは古代ヨーロッパの歴史を眺めると分かってきます。では一つずつ見ていきましょう。

どの文化や文明にもルーツというのがありますが、ヨーロッパではこれがギリシア文明にあります。このギリシア文明の源流となったのがエーゲ文明と呼ばれる者です。海上交易が盛んだったエーゲ海周辺は元々地形が複雑で、人が暮らせるような平地はごく限られてました。この狭い塀いちに交易が発達したことで人が密集していき、都市が作られていくことになります。

エーゲ文明は前半と後半の大きく二つに分けることができて、前半をクレタ文明、後半をミケーネ文明と呼びます。それぞれどういう文明だったのか?前半のクレタ文明は一言で言うと「明るい海洋文明」です。この頃はまだ戦いというものにまだ慣れていなくてですね、宮殿にも城壁が一切ないような、良く言えば平和的、悪く言えば警戒心がない文明でした。一方、後半のミケーネ文明はそれとは逆で「好戦的な文明」でした。遺跡には巨石が積まれた城壁がたくさん確認されていて、激しい抗争があったと言われています。

そんなエーゲ文明なんですが、実はエーゲ文明からすぐにギリシア文明に移ったわけではなくて、そこから約400年間いまだに解明されていない空白の時代が続きます。この400年間を過ぎた後にギリシアで生まれたのが「ポリス」という都市国家です。このポリスの形成者たちがいわゆる古代ギリシア人であるとされています。ギリシア人は小高い山の上の周辺に集まって暮らすという特徴があって、そこで神殿を作ったり、裁判や商業をおこなっていたそうです。

ポリスは形成当初から一枚岩になってたわけじゃありません。言語の違いによって複数のポリスが作られていて、それぞれがライバル心を持ちながら、時には戦争することもあったようです。ただ一方で、共通の特徴もいくつか持ったりしています。そのうちの一つがオリンピックの開催です。そう、みなさんご存知あのオリンピックです。元々オリンピックという名前はギリシアにあるオリンピアでのスポーツの祭典という意味でつけられていて、各ポリスが一緒にスポーツを行うために作られたイベントなんです。このポリスの歴史だけ見ても、ヨーロッパの個性が垣間見えるんですよね。言語の違いでポリス同士が対立してると思えば、オリンピックでは一緒にスポーツやって見たりして。多様と統一の個性がこの頃から既に見え隠れしていることが良く分かります。

さあ、そんな感じでたくさん作られていったポリスですが、その中でも特に中心的な勢力を誇っていたのが「アテネ」なんですね。現在はギリシアの首都になっているあのアテネです。

実はこのアテネの地で、人類史上に残る発明が生まれます。「直接民主政」というものです。これは貴族が政治を独占している体制に市民が声を上げたことで、成年男子全員が政治に参加できるようになったというもの。そう、つまりここで民主主義の原点が生まれることになるんです。

元々アテネの政治体制は、貴族が全ての政策を決めるという方針がとられてました。ただ、アテネが発展していって、市民が重装歩兵として戦争に参加できるようになると「貴族が政治を独占すんな!」という声が高まって身分闘争が起きるんですね。ここからアテネは少しづつ、民主的な政治体制を築いていきます。まず「貴族が政治を独占してはいけません」というのが成文法によって明記されるようになると、そこから「財産政治」という体制を始めます。これは納税額に応じて市民を四つに等分して段階的に参政権を与えるというもの。お金がなければ政治に参加できないということでまだまだ不平等なんですが、貴族が独占していた頃に比べればいくらかマシなったと言えるでしょう。

民主制の流れは決してトントン拍子で続いたわけではありません。財産政治の仕組みがとられた後、一時は独裁政治が挟まります。当時アテネで頭角を表していたペイシストラトスという人物がいて、彼は戦争での武力で成果を上げたことでアテネの実権を握ります。投票によって選ばれたわけではないので、自称独裁者ということで「僭主せんしゅ」と呼ばれます。彼による僭主政治が始まったことでアテネは一時的に独裁体制になります。ただですね、独裁下になると貴族も市民も関係なく扱われるので民主化までの流れで見ると結果的に市民の権利は向上したと言えます。

ペイシストラトスの後も何代か僭主政治が続くんですがこの僭主たちの政治がまあお粗末だったことで、民衆の間で対策がとられるようになります。それが「陶片追放」というものです。これどういうものなのか簡単に説明すると、陶器のかけらにお粗末な政治を行うような僭主の名前を書いて、得票数の多かった奴がアテネから追放されるという制度なんです。すごくないですか。だから言ったら「逆投票」のようなものですよね。学校とかに例えると「授業中に妨害行為ばかりする奴をクラスメイト全員で投票して、一番票取った奴は一ヶ月間停学」みたいな。そんな感じです

この制度が敷かれたことで貴族も影響を受けます。要するにこれまでのように貴族が政治を独占しようとすれば、陶片追放の制度によってアテネから追放されるってことなんですよね。だからおいそれと政治に参加できないし、参加するにしても市民と協調しあって独占しないように努めないといけないってことです。これによってアテネの民主化が一気に進みます。

そして、将軍ペリクレスの時代になると成年男子全員に参政権が与えられるようになり貴族でも市民でも政治に参加できるようになります。成年男子といってるように、まだ奴隷や女性に対して参政権が与えられていないところみると、今の僕たちからすればまだまだ不平等だなと思ってしまいますが、それでも男性市民全員が支持に参加できるような直接民主政に変わっていったことはアテネの大きな発明だと言えるでしょう。

さて、そんなアテネと対を成すポリスも存在しています。それが「スパルタ」です。スパルタと言えば「スパルタ教育」を連想する方が多いと思いますが、「スパルタとはどういう意味なの?」と聞かれて戸惑ったことがある方ももしかしたらいるかも知れません。実は古代ギリシア時代に生まれたポリスの名前なんですね。「スパルタ教育」と聞くと、例えば、予習とテストを何度も繰り返して基準点越えるまで帰れない塾みたいなのとか、ハードな練習と厳しいコーチングを一日中受ける部活の練習とか、とにかく「厳しい」をイメージを持っていると思います。そのイメージがどうしてできたのか。これはスパルタの制度を学ぶと良く分かります。

スパルタというポリスは、当時から強大な軍事と活発な遠征によって支配領域を次々に広げていて、その過程で各地の支配地域から奴隷がたくさん流入していたんですね。その数なんと7万人。5万人の農民と2万人の商工業民の計7万人の奴隷をスパルタは抱えていました。これに対してスパルタ市民の数はわずか5千人。つまり、5千人の市民で7万人の奴隷を支配する必要がありました。もし奴隷が自分たちの支配に反乱でも起こそうものものなら、いくら支配している側といえど圧倒的な数の差でひっくり返されてしまいます。その事態はなんとか防がなければいけない。そう言って始まったのが「リュクルゴスの制」というものです。これは奴隷に反乱を起こさせないために市民たちを厳しく訓練するとともに軍国主義の考え方を浸透させるというもの。そうすることによってスパルタ市民は戦争をしていない平時であってもナメられないようにしていたんですね。なので必ずしも市民を苦しめてやろうと思って始めたわけではなくて、強い国を維持するためには強い市民を育てなければいけないという考えに基づいて始められたものだったんですね。その甲斐もあってか、スパルタはポリスの中でもアテネに並ぶライバルとして勢力を拡大していきました。

そんな二大勢力のアテネ、スパルタですが、この時期大きな戦争も経験します。それが「ペルシア戦争」です。

アテネやスパルタが発展していた頃、東側ではアケメネス朝ペルシアという国が一大帝国を築いていて、ここと戦争することになります。事の発端はペルシア帝国にいたギリシア人が「ペルシアの支配から離脱したい!」ということで反乱を起こしたんですが、その反乱にアテネが手を貸します。これに怒ったペルシアがアテネとぶつかったことで戦争が始まります。ペルシア帝国の存在はポリス全体にとっても脅威だったので、アテネはライバルであったスパルタと手を組んで共通の敵であるペルシアを倒す動きに出ます。主に3つの戦争を戦うことになるんですがここではその詳細は省きます。詳しく知りたい方は是非調べてみてください。とにかく色々ありまして、結果、アテネ・スパルタの連合軍が勝利し、ペルシアの支配領域を奪い取ることに成功します。

「これで脅威は収まって一件落着」とならないのが人間の歴史です。みなさん覚えておいてください。人間というのは僕も含めですが、どこまでも欲深い存在です。外敵が消えた後の世界を誰が仕切るのかという問題でやはり争うというのが歴史の一つのパターンです。

戦争の後、アテネではペルシアのような勢力がまた現れた際にすぐに共闘できるようにということで周辺のポリスと「デロス同盟」というのを結びます。しかし、このデロス同盟を組んだことがスパルタ側から「主導権を取りにきやがった」と誤解されて、スパルタ側はスパルタ側で「ペルポネソス同盟」というものを組んで対抗します。これによって両者の主導権争いが本格化し、その対立にさらに「テーベ」という都市国家も加わったことで、三つ巴の戦争が始まってしまいます。これが外敵を退治した後の主導権をかけた「ペルポネソス戦争」です。この戦争、めっちゃ長期化してしましまして、これを契機としてポリス社会は滅亡していくことになります。

しかしここで、新たな勢力が台頭してきます。それが実はマケドニアなんですね。「マケドニア?なんで?」ということなんですが説明しましょう。

マケドニアという国はギリシア世界に登場していた国の一つなんですが、各地でポリスが作られていた頃、マケドニアはポリスを作らない方針をとっていたんですね。そのことで周辺の国から格下扱いされていたんですね。ですが、フィリッポス2世という王が就いた頃からマケドニアでは軍事力の拡大に尽力しまして、それによってあのペルポネソス戦争の混乱に乗じてアテネ、テーベの連合軍と戦い、なんと勝利するんですね。その後、連合軍側と「コリントス同盟」というのを結び、ポリスを支配下に置くことに成功します。この一連の戦争を「カイロネイアの戦い」と呼んでいます。

ギリシア世界を一気に支配したフィリッポス2世がその後に託したのが、みなさんご存知アレクサンドロスです。

アレクサンドロスと聞くと、あまり知らない方であっても「軍略家として活躍した」というイメージをなんとなくお持ちなんじゃないでしょうか?そう、アクレスサンドロスというのはまさにその当時の世界において数々の奇抜な戦略で勝ち進んたことでヨーロッパからインドにまたがる巨大帝国を一代で築き上げた、まさに軍略家だったんですね。

アレクサンドロスはその当時、ギリシア世界においてずっと脅威だったアケメネス朝ペルシアを倒すために「東方出兵」という戦術を決行します。これどういうものかと言うと、

「重装歩兵で敵の主力を足止めしつつ、自信は騎馬隊を編成して敵陣を大きく迂回しながら心臓部をつく」というものなんですね。これをマケドニアとギリシアの兵を率いて実行したことでペルシアは一気に倒れることになり、最終的にはインド北西部まで侵攻して大帝国を築くことになります。

しかし、過剰な攻め入りが自分の身を滅ぼすというのはいつの時代もよくあることらしく、インドまで行軍してきた兵隊たちはかなり疲労しきってですね、インダス川流域を超えたあたりで快進撃は止まってしまいます。潮時だということで故郷マケドニアに帰る途中、アレクサンドロスはなんと32歳の若さで亡くなってしまいます。

突然の死亡だったことで帝国は後継者を誰にするかを早急に迫られることになるんですが、アレクサンドロスは生前、「最も強い者が俺の後を継げ」というなんとも曖昧な遺言しか残していなかったためで帝国内のリーダー格同士が「一番強いの俺だから」ということで揉めてしまい、後継者争いへと発展してしまいます。

その結果、アレクサンドロスの気づいた巨大な帝国は3つに分割されることになりまして、故郷に近いマケドニア周辺をアスティゴノス朝マケドニア、現在の中東に近いエリアをセレシウス朝シリア、現在のエジプト周辺エリアをプトレマイオス朝エジプトとそれぞれ名付けられることになります。

ということで、Chapter2「~エーゲ海からアレクサンドロスまで~」は以上になります。

振り返ってみると、戦争だろうが政治の揉め事だろうが、争いの原因というは結局どの時代、どの民族でも変わんねえなというのを率直に感じました。貴族は利権を手放したくない。政治のトップについたら好き勝手に支配する。共闘したと思えば主導権争い。過剰に攻めすぎて早死に。こういう人間の過ちって形こそ違えど今とあまり変わんないですよね。そういう意味で言うと、歴史に学ばない人間がいかに多いかと言うのを痛感させられますね。ただ一方で、都市を築いて文明を発達させたりだとか、オリンピックのようにスポーツ祭典は一緒に行ったりとか、民主的な政治を目指して人々が動いたりとか。そう言う悲惨な歴史の中でも人間独自が築ける経済とか平和に向けての動きが垣間見えるところもあったと言うのは少し誇らしくも感じました。

ヨーロッパの個性である多様と統一がここだけでもかなり見て取れたので、この先どう変化していくのかもぜひ一緒に見ていきましょう。

さて、次回はChapter3「~ローマ帝国の誕生と民族移動~」について解説していきます。このパートからついにローマ帝国の歴史についてみていきますが、このローマ帝国が与えた影響というのはこの先のヨーロッパのあり方を大きく決めた重要なポイントです。民族移動に関しては現在のヨーロッパのルーツを決めたと言われているので、こことローマ帝国がどう影響し合うのかも見所です。

そしてキリスト教の誕生とその影響についてもここから解説していきます。未だに解消できてない宗教の対立がどうして起こったのか?同じ宗教なのに宗派がいくつにも分かれたのはどうしてか?

ここについてもできる限りわかりやすく解説していこうと思いますのでお楽しみに。

ということで、アルムでした。また次回お会いしましょう。

それではまた。

参考文献:『一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書』

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一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書 公立高校教師YouTuberが書いた (刊:SBクリエイティブ) 世界史の教科書 amazonで見る
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