アルムの書斎

【ざっくり世界史解説】

chapter3

〜ローマ帝国の誕生と
民族移動〜

ざっくり世界史解説

どうも、アルムです。

ということで今回は「ざっくり世界史解説」のChapter3「~ローマ帝国の誕生と民族移動~」について解説していこうと思います。

前回から古代ヨーロッパの歴史を解説してまして、まずはパート1「~エーゲ文明からアレクサンドロスまで~」と題し解説しました。まだみてない方は是非そちらから見て頂きたいんですが、改めて内容をざっくり振り返りましょうか。

ヨーロッパの文化のルーツはギリシア文明であり、その源流となったのがエーゲ文明であると。エーゲ文明は前半と後半に大きく分けることができて、前半は「明るい海洋文明」、後半は「好戦的な文明」として発展していったと。そこから未だに解明されていない空白の400年間が続き、その後、「ポリス」という都市国家が生まれると。ポリスは一枚岩になってたわけではなく、言語の違いから複数のポリスが乱立し、互いに争うこともあった。ただそんな中でもギリシア神話という共通の宗教を信じていたり、オリンピックのようなスポーツの祭典を一緒に行っていたりして、一体感も見られていたと。ポリスが発展に合わせて人口も増えていき、ポリスの中だけでは人口を抱えきれないということで、イタリアのナポリやフランスのマルセイユなどに植民市という形で支配領域を作っていったと。乱立したポリスのうち特に中心的な勢力だったのがアテネとスパルタ。アテネは発展に合わせて「直接民主政」という民主主義の原点を発明し、スパルタは少ない市民で多くの奴隷を支配するために「リュクルゴスの制」という仕組みをつくり市民に対して厳しい訓練と軍国主義の考え方を浸透させていったと。そんなアテネ、スパルタが共闘して東側の一大帝国であったアケメネス朝ペルシアと戦ったのが「ペルシア戦争」。これに勝利したことでポリスは支配領域を一気に広げることになるが、その後の主導権をかけて内輪揉めが始まってしまい、三つ巴の状態で内部が争うことになる。これが「ペルポネソス戦争」。ただ、この混乱に乗じて勢力を拡大したのがマケドニア。元々周辺のポリスから格下扱いをされていたんだけれども、フィリッポス2世が王になり軍備の増強に努めたことで、アテネ、テーベの連合軍に勝利し、ポリスを支配下に置くことに成功する。これが「カイロネイアの戦い」。そしてフィリッポス2世の跡を引き継いだのがみなさんご存知アレクサンドロス。彼はアケメネス朝ペルシアに対して「東方出兵」という機動戦の戦を決行したことでペルシアを倒し支配領域をさらに広げた。最終的にはインド北西部まで進行し巨大帝国を築くまでに至る。ただ、過剰な攻め入りが続いたことで率いていた兵隊は疲労しきってしまい、インダス川流域を超えたあたりで快進撃は止まる。潮時だということで故郷に戻るが、その道中に亡くなってしまうと。32歳の若さで亡くなってしまったために遺言も曖昧なままで、その後の帝国は後継者争いで揉めだしてしまう。結局帝国は3カ国に分裂し、のちのローマや中東、インドに翻弄されながら統一したり分裂したりを繰り返していくことになると。

こんなところまでを解説しました。今回はその続きで、前回はギリシア中心だったんですが、ここでは視点を移してローマの歴史を見ていきたいと思います。「世界史といえばまさにココ!」という話が盛り沢山なので、ぜひ最後まで聴いていただけると嬉しいです。

今回の解説は記事にもなっているので、先に知りたい方はそちらを是非ご覧ください。それでは、早速いきましょう。

古代ギリシアと共にヨーロッパの文化に影響を与えたのが「ローマ帝国」です。このローマ帝国は西ヨーロッパから地中海全域に至るぐらいのメッチャでかい大帝国だったためにヨーロッパの個性である「統一性」をもたらす重要な要素になります。

「ローマ帝国」と言っても、その前半は王や皇帝を持たない「共和政」の時代がありました。ローマにも古代ギリシアと同じく身分制度があって、貴族、平民、奴隷に分かれていたんですが、国の指導権は元老院というところが握っていて、そこを貴族が独占していました。しかしローマが発展していくと、ギリシアの時と同じように平民が重装歩兵して戦争に参加するようになり、「貴族だけで政治を独占すんじゃねえ」ということで身分闘争が起こります。これによって平民の参政権が少しずつ向上していきます。古代ギリシアの時と全く同じ流れですね。

「護民官」という制度を作って平民の権利を守ったり、平民のための議会である「平民会」が作られたり、貴族による法の独占を防ぐための成文法ができたりしました。

ここまでは古代ギリシアと全く同じなんですが、知っての通りローマは「帝国」です。後半は一人のトップが政治を行うようになっていきます。このまま共和政がうまくいけば帝国にはなってませんから、どっかのタイミングで「帝国にしなきゃいけない理由」があったということです。それが一体何なのかはこの後の動きを見るとわかってきます。

平民の参政権が少しずつ高まっていった頃、次に打ち出されたのが「ホルテンシウス法」というものです。どういうものかと言うと、「平民会での決議は元老院の承認を得る必要なくそのまま国の法律になる」と言うものです。平民会というのはさっきも言った通り平民の議会ですから、要するに「平民で作った法律=国の法律にできちゃう」っていう法律なわけです。これによって貴族と平民の権利がほぼ平等になり「めでたしめでたし」となるはずだったんですが、実はこれが後の争いの種になります。

ここまでの平民による参政権向上の流れにおいて見落とされてしまっているのが、「貴族の権利をどうするか」ということです。

今でもそうだと思うんですけど、例えば自分が会社とか学校において相対的に弱い立場にいた場合、会社だったら平社員とか、学校だったら一般生徒みたいなものを想像してもらえればいいんですけど、その自分が会社や学校の方針に対して何かしらの権利を主張したい時があったとするじゃないですか。でもそういう方針って基本的には会社の重役だったり、学校であれば教員とか保護者が中心になって進められてくので、自分の発言権って正直そんなに高くないわけですよ。じゃあどうやったら自分の意見を聞き入れてもらえるかを考えたときに、ほとんどの場合まずやるのが「自分達の権利の向上」です。まあ、当たり前といえばそうですよね。立場弱いなら徒党を組むなり会議を立ち上げるなりすれば影響力は次第に高まります。それはその通りです。

ただ、仮に自分達の意見が聞き入れられたとしても、その意見をもとに組織を運営してるのは誰かって言ったらやっぱり立場が上の人間なんですよ。権利が保障されても、それを上の人間に都合のいいように運用されたら意味がないわけです。だから、本当に権利を保障してほしかったら「自分達の権利の向上」と並行して「相手の権利をどうしたいか」についても考える必要があります。そうしないとさっき言ったように片手落ちになりますから。

この時のローマもそれと一緒です。要は「ホルテンシウス法」によって平民が法律を作れるようになったとしても、それを実際に運用するのは元老院なので、「国の指導権は元老院が持つ」っていう部分に切り込みを入れないと貴族にとって都合のいいように運用されてしまうってことなんですよ。ローマではまさにそれが起きてしまい、「法を作る平民側」と「法を運用する貴族側」で対立が起きてしまうんですね。アテネでは身分が解消されて共和政になったのに対し、ローマでは身分が解消されたことで逆に対立が深まる事態になってしまいました。

そんな内輪揉めが続いていたローマなんですが、軍事面では拡大を続けていました。この頃経験した大きな戦争が「ポエニ戦争」というものです。これ、僕なりにキャッチコピーつけてみました。ズバリ「VSカルタゴ、地中海の覇権を懸けて」です。

カルタゴというのはローマから見て地中海を挟んだ向かい側にある国でお互いにライバル心を持っていました。そのカルタゴと地中海の覇権をかけて争ったのがポエニ戦争です。全3回にわたって行われたんですが、結果から言うと、ローマが勝利します。第1回でローマが勝利したことでシチリア島という、地図で言うとイタリア半島のあの長ぐつのつま先の方にある半島。そこを獲得します。第2回では名将同士の対決になりまして、カルタゴ側には世界史上最高の名将ともいわれるハンニバルが指揮を執ります。このハンニバルのとった戦術がまた面白くて、どういうことやったかと言うと、象からなる部隊を編成してイベリア半島からアルプス山脈越えて回り込み、北から一気に攻めるっていうのをやり方をしたんですよ。北から攻められると思ってないローマは完全に意表を突かれて崩壊寸前まで追い込まれます。しかしローマ側にもスキピオという名将がいまして、彼は攻められてるローマからあえて出撃してカルタゴ本土を攻撃するという反撃に出ます。本土を攻撃されて焦ったハンニバルは一旦戻るんですが、これがスキピオのおびき寄せ作戦だったのでカルタゴは一気に攻め返され2回目もローマが勝利します。最終戦もローマが勝利し、結果的にカルタゴの支配領域をごっそり奪い取ることに成功します。

戦争に勝って国内が活気づくと思われたローマだったんですが、これがそうならなかったんですね。どうしてか?ローマ本土は先の戦争でがっつり戦場になっていたので戦争後、荒廃しきってたんですね。それによって農民たちが農業を再開させるのがむちゃくちゃ厳しくなっていました。さらに言うと、ローマは戦争には勝っているので支配領域の拡大に合わせて奴隷もたくさん流入していたんですが、それをお金持ちがですね買い占めて、大規模農園で働かせるってことをやってました。こうなると裕福でない農民は勝ち目がなくなってしまいます。ただでさえ土地が荒廃してる上に、お金持ちに大規模農園まで運営されてしまったら自分達は対抗できる術がありません。これによって農民から失業者が続出し、戦争後の立て直しを訴えて反乱勢力が台頭してしまいます。

政府は当然この事態をどうにかしなきゃいけないんですが、そのために打った政策が「パンとサーカス」というもの。これどういうものかというと、困窮した国民たちに対して食事を提供すると共に闘技場での剣闘などを見せることによって不満を逸らす、というものです。いったら単なる「憂さ晴らし政策」ですね。当然ながらこんなものは困窮した農民にとって根本的な解決にはなってないので、反発は次第に強くなっていき、ついに国内で内乱が起き始めます。この時期のローマは「内乱の1世紀」というふうに呼ばれていて約1世紀にもわたって内乱が続いたことからこう名付けられました。

混乱に直面したローマの人々は、「混乱をおさめれるような強いリーダーを立てなきゃいけない!」ということでリーダーシップの執れそうな者を三人擁立してその人たちに政治を任せる「三頭政治」という仕組みを導入します。これを契機としてローマは共和政から帝政へと移っていきます。リーダーには当時のローマでも有力な者達が選ばれたんですがその中でも特に存在感を発揮したのが、あの有名な「カエサル」です。カエサルは遠征によって戦果を重ねたことで国民から名声を集めていき、途中リーダー格の一人だった者から喧嘩も吹っかけられるんですがそれも勝利したことで、ローマの絶対権力者になります。しかし、それまで三人のリーダーのうちの一人に過ぎなかったカエサルは「終身独裁官」という最高役職を作りそこに自ら就こうとしたことで共和政の維持を訴える勢力から一気に反発を受けまして、最終的には最も信頼していたブルートゥスにも裏切られ、暗殺されてしまいます。このカエサルが暗殺させるまでの三頭政治を「第1回三頭政治」と呼びます。

カエサルが亡くなった後、「第2回三頭政治」が行われるんですが、ここでも三人は協調できず、お互いに対立してしまします。やっぱり政治をうまく進めていくには、「徹底して民主政にして全員で決めるか」、「強力なリーダーを一人立てて指揮させるか」のいずれかしかないのかもしれません。中途半端に三人にしても上手くワークしないようです。この時はカエサルの養子であったオクタウィアヌスが主導権を握るんですが、これに対抗しようとリーダー格の一人だったアントニウスはエジプトの女王クレオパトラと手を組んでオクタウィアヌスを倒そうと画策するんですが、戦いの結果、オクタウィアヌス側が勝利したことで完全に決着がつきました。

さあ、共和政、三頭政治を経たローマはいよいよ、強力なリーダー一人が国を治める「帝政」の時代に入っていきます。現在でもロシアや中国、アメリカなどの広大な国土を有する国では独裁ともいえる強力なリーダーシップが往々にして与えられます。国家の規模が大きくなればなるほど権力が集中するというのは歴史の一つのパターンのようです。

トップに立ったオクタウィアヌスは元老院から「尊厳者」の意味である「アウグストゥス」という称号を得て初代ローマの皇帝に就任します。皇帝といってもオクタウィアヌスはあくまで「第一の市民」という立場を名乗って、共和政を支持する勢力に対して配慮するよう努めます。そしてこのオクタウィアヌスの後、約200年間にわたってローマに繁栄をもたらすのが、知る人ぞ知る「五賢帝」の時代です。この五賢帝、一人一人解説していきたい気持ちもあるんですが、今回の世界史解説はあくまでも「ストーリー重視」なのでここでの解説は省略します。また改めて紹介しようと思いますが、調べてみたいという方は是非調べてみてください。とりあえず今は、五賢帝による優れた統治によってローマに平和がもたらされたこと。そして東南アジアや中国と交易を活発に行った、ということをなんとなく頭に入れて入れいただければと思います。

さて、平和な時代が続いたローマでしたが五賢帝最後の皇帝の時代が終わるとローマは混乱の時代に入り、3世紀中盤から「軍人帝国時代」という時代に突入します。それまで支配権を最大に広げていたローマは徐々に財政不振に陥ると同時に、異民族の侵入も始まったことでローマ帝国自体の支配力も低下していきます。

なんとか体制を立て直さないといけないということで登場したのがディオクレティアヌス帝という皇帝です。もう読みづらい皇帝ばっかで嫌になるんですが無理して名前を覚える必要はありません。それよりもローマの政治にどう関わっていったかの方が重要なのでそっちを注視しくれれば大丈夫です。

彼は混乱したローマにおいてより強力なリーダシップを発揮するために「専制君主政」というのを始めます。これは簡単にいうと「皇帝=神として礼拝しろ」というものです。この当時はキリスト教がローマにまだ普及してないので、皇帝を神として崇めるというやり方はまだ通用していました。これによって皇帝の権力を圧倒的に高めようとしたわけです。さらに彼は大きくなり過ぎたローマ帝国を東西に分割して、それぞれに正帝と副帝というのを据えて計4人で治めることでローマの安定を図りました。結果的にディオクレティアヌス帝はローマの安定に貢献することができたんですが、この頃台頭し始めていたキリスト教への迫害を進めたことで後世での評判はあまり良くないようです。

次に後を引き継いだのがコンスタンティヌス帝です。彼のキリスト教への対応はディオクレティアヌスとは逆でして、公認する、というやり方を採ります。つまり迫害することなく自由に信仰してていいですよということにしたんです。これを「ミラノ勅令」と言います。これによって迫害されていたキリスト教徒たちはヨーロッパ全土に布教を行い、信者を瞬く間に増やしていくことになります。

ディオクレティアヌス帝とコンスタンティヌス帝によって一時的にローマは安定するんですが、一番の課題だった財政面に関しては解決しきれなかったことで軍事費や官僚に対する人件費は膨れ上がり、ローマの財政は破綻。支配下にあった属州が反乱を起こしてしまいます。これに追い討ちをかけるかの如く、ゲルマン人の民族移動も始まってしまい、帝国は末期に陥ります。後を引き継いだテオドシウス帝は巨大なローマ帝国をこれ以上維持するのは難しいということで再びローマを東西に分割し、それぞれの領土を自分の子供に分け与えます。しかしこれ以降ローマ帝国が一つになることはありませんでした。テオドシウス帝はキリスト教に対する対応もさらに進めて、「キリスト教以外の宗教は禁止する」というキリスト教の国教化を行います。これによってさらにキリスト教はヨーロッパ全土に普及していくこととなります。

それではここでキリスト教の誕生について軽く解説しましょう。時間を少し巻き戻し、アウグストゥスによる帝政の時代から話をさせてください。

オクタウィアヌスが尊厳者アウグストゥスの称号を得てローマの帝政が始まった頃、支配下であったパレスチナの地に「イエス」という男の子が生まれます。パレスチナでの主な宗教はユダヤ教だったんですが、当時は困窮する民衆が多く、ローマ帝政による強圧な政治も行われていたことで、飢えに苦しむユダヤ人がたくさんいました。その上でユダヤ教の祭司は人々に対し戒律を守ることや戒律を破ることによって神からの罰を受けることばかりを説いていたので人々は精神的にも疲弊しきってたんですね。イエスはそんなユダヤ教に疑問を抱き、「神は罰ではなく愛を与える存在だ」ということで神や隣人の愛について説き始めます。「愛」というそれまでのユダヤ教にはない考え方を与えられたことで苦しんでいたユダヤ人は少しずつ癒されていき、やがて多くの民衆がイエスに従い、彼を救世主「キリスト」と呼ぶようになります。

そんな事態を快く思わないのがユダヤ教の祭司たちです。要するにユダヤ教の世界観を利用して新しい考え方を広められたことで「お客を取られた」格好になってしまったからです。

ユダヤ教の祭司たちはイエスを危険視しローマの反逆者として訴えたことで、イエスはローマに捕まり、十字架に磔にされ処刑されてしまいます。この「イエスを十字架にかけた民」ということでユダヤ人はその後長きにわたって迫害され続けることになります。

イエスはあくまでユダヤ教の一信者に過ぎなかったため自分からキリスト教を始めようなどとは全く思っていませんでした。しかしイエスを信仰していた弟子たちが彼の教えや行動を徐々に広めていったことで「キリスト教」が成立します。ただ、最初の頃はすぐ受け入れられたわけではありませんでした。ローマ帝国はその当時、ギリシア神話をはじめとした多神教の国だったので、「神は唯一絶対の完璧な存在で、それ以外の神は存在しない」というキリスト教の教えは「多くの神が存在する」というそれまでの世界観を否定するようなものだったんです。それによってディオクレティアヌス帝の頃はキリスト教は迫害されてしまいます。しかし、キリスト教は苦しみが続くその状態を逆手に取り、ローマで徐々に信者を増やしていきます。コンスタンティヌス帝に政権が移った頃には信者が相当な数増えており、いよいよ「ミラノ勅令」によって公認されるまでに至ります。これによってヨーロッパ全土にキリスト教が普及します。そして帝国が弱体化し始めていたテオドシウス帝の頃には「キリスト教の国教化」によって「キリスト教以外の宗教の信仰は認めない」という段階にまで行き着きます。こうして現在のヨーロッパのほぼ全域にわたってキリスト教が信仰され、ヨーロッパの宗教的な統一をもたらすようになっていきました。

さあ、ここからはいよいよ民族移動の話に入っていきます。ローマ帝国の東西分裂から、大航海時代、ルネサンスが始まるまでの1000年間を中世と呼びますが、この中世の時代にヨーロッパで起こった最も大きなイベント、それが「民族移動」です。最初はゲルマン人から始まります。

ゲルマン人は元々アルプス山脈の北で主に生息していた民族で、狩猟や牧畜を中心に行ってました。ローマに対しては、時に略奪を働く侵入者として攻め入ったり、また時には小作人や傭兵として移住するなんてこともありました。ところが、4世紀後半になってその状況に変化が起き始めます。東側で勢力を広げていたアジア系のフン族というのが突然西に向かって攻めてきたからです。いきなり東側から圧迫されたことでゲルマン人は西に向かって次々に移動を始め、ローマ帝国全域に向かって逃げていくことになります。これが「ゲルマン人の大移動」です。ゲルマン人はそれまでヨーロッパの地に住んでいた民族を圧迫しながら移住先を探していき、その先で次々に国を作っていきます。例えばフランスという国は、移住してきたフランク族が語源の国だし、イングランドという国はアングロサクソン族によって作られた「アングロランド」が語源の国です。

そんなゲルマン人が作った国の中でも最も大きな力を持っていたのがフランク王国です。このフランク王国は西ヨーロッパでも随一の穀倉地だったので、その豊かさを活かしてゲルマン人諸国の中で最も安定した国になりました。5世紀ごろにはメロヴィング家によるメロヴィング朝という王朝が始まり、カトリックにも改宗することになります。ゲルマン人は多くが異端派だとされていたんですがいち早くカトリックに改宗したことで今までローマ帝国の貴族や市民だった人々も「キリスト教を信仰するならまあ受け入れるか」ということになり、徐々に西ヨーロッパの中心勢力となっていきます。「キリスト教を信仰するならよその集団が作った国でも受け入れる」ということですから、いかにキリスト教の影響力が強かったかが分かります。

メロヴィング朝はしばらく続くんですが、後に王が権力を奪われたことで、新しくカロリング朝というのが開かれます。ただこの時は、奪った側が単なるクーデタというふうに国民から見られたくなかったということで、奪った事実をできるだけ正当化するために宗教勢力を活用します。スポンサーを求めていたキリスト教の教皇に対し、土地を寄付する代わりにクーデタを承認するというのを行いました。これによってカロリング朝のトップはキリスト教世界公認の王としてフランク王国を継承することになります。

これ僕の率直な感想なんですけど、この辺りからなんというか、政治のやり方が巧妙になったなという気がします。ギリシア世界ではもうとにかく戦争に勝った奴が全てを決めるとか、初期のローマでも権力闘争に勝った奴の言うことにはみんな従う、みたいな雰囲気がまだあったんですけど、弱者のためのキリスト教が浸透した世界だと、単純に武力で政権をもぎ取ってもキリスト教の観点からは支持が得られないと言う事態が発生するみたいですね。だから武力で勝ち取るにしても、事前にもしくは事後にキリスト教のトップと交渉して武力による政治を正当化してもらうように工夫してると。だから今でもヨーロッパの人々って政治や商売の駆け引きとか交渉がめっちゃ高度なイメージがありますけど、もしかしたらそれは、この頃から始まったキリスト教の普及と民族移動がルーツにあるのかも知れません。

さて、カロリング朝を開いたトップがその後のフランク王国を託したのが、カール大帝ですね。これも知ってる方多いんじゃないですかね?カール大帝は「大帝」と言うその名の通り、周辺の敵国との戦いで次々勝利していったことで現在のドイツやフランス、北イタリアまでも領土にした王様として有名です。当時のローマ教皇とも関係を深めていき、ついには教皇自身が、フランク王国を西ローマ帝国に見立ててその復活を宣言するという「カールの戴冠」というのまで行われます。そんな、勢力を拡大したカール大帝ですが、政治のトップを自分の子に引き継いだ後は、孫たちが主導権をめぐって対立してしまいます。これも歴史のパターンみたいですね。身内だろうがそうじゃなかろうが、広大な領土を支配していたトップが退いてその後政治を任せたら、有力なリーダー同士が主導権をかけて争うというのは。

孫たちの間で対立しあったことでフランク王国の広大な領土は3分割されることになり、それぞれ東フランク王国、西フランク王国、イタリアにそれぞれ分かれます。

東フランクというのは現在のドイツのことを指していて、カロリング家が断絶した後はオットー1世という奴がトップに就きます。ローマ教皇にも接近していったことで、東フランク王国は後に「神聖ローマ帝国」と呼ばれるようになります。ただ「ローマ」と名がついているにも関わらず、ローマの地はイタリアに持たれてしまってるということで、神聖ローマ帝国はその後何度も、イタリアに攻め入りローマを奪い取りにくるようになります。

西フランク王国というのが現在のフランスのルーツです。カロリング家がすぐに断絶してしまうと新たなトップにユーグ=カペーという奴が就きまして、「カペー朝」という王朝を新たに始めます。

イタリアはそのまま、現在のイタリアのルーツになります。ここはローマを持っている国なので、分割して間もなく神聖ローマ帝国から何度もちょっかい出されます。それに加えて、東からイスラーム勢力の侵入も始まっていくので国内は一気に乱れていきます。ただその乱れがかえって影響したことで、イタリアの各地ではジェノヴァやヴェネツィアといった地方都市が出現していき、イタリアの主役となっていきます。

民族移動が起きたのはゲルマン人だけではありません。2つ目の民族移動は北ヨーロッパから起こります。それが「ノルマン人の大移動」です。

北欧諸国やフランス北西部、南イタリア、イギリス、ロシアなどに次々と国が作られていったんですが、中でもイギリスの「ノルマン朝」という王朝はフランスのノルマンディー公でもあった、征服王ウィリアム1世によって作られていて、以降、イギリス王は元を辿れば全員がウィリアム1世に遡るというイギリス王室の源流になります。

そして、最後に起きた民族移動が「スラヴ人の大移動」です。西ヨーロッパの民族移動はゲルマン人やノルマン人が中心でしたが東ヨーロッパの民族移動はスラヴ人が中心になります。ゲルマン人の大移動が落ち着いてフン族が崩壊すると、その空白地帯に広がるように国を作っていきました。移動のした方角によってそれぞれ個性が違っていて、東スラヴ人といわれた人々はいわゆるロシア人として国を作っていき、西スラブ人はポーランド人やチェック人、南スラブ人はセルビア人やクロアティア人と呼ばれます。

これら3つの民族移動が続いたことで、それまでローマ帝国が支配していたヨーロッパにさまざまな民族が入り乱れながら国を作っていき、現在のヨーロッパのような文化が形成されていくことになります。

さて、ヨーロッパ国家におけるルーツの最後の話は、現在のギリシアのルーツになった「ビザンツ帝国」です。名前は聞いたことあるとけど、どういう国だったのかまではよく知らないという方はが多いんじゃないでしょうか。

ビザンツ帝国はローマが東西に分裂した後の「東ローマ帝国」の方を指します。ビザンツという名前は、ビザンティウムという所を都にしたためにつけられた名前です。この「ビザンティウム」が、後の「コンスタンティノープル」になります。西ローマ帝国はこれまで見てきた通りすぐ滅亡してしまい、くっついたり分割したりを繰り返すんですが、このビザンツ帝国はなんと1000年以上も永らえます。西ヨーロッパが民族移動によって混乱している側でビザンツ帝国はいったら「ヨーロッパの端っこ」に位置してたので、民族移動による影響が小さかったとされています。その影響もあって国内は商業や貨幣経済で大いに繁栄していきます。

最盛期の皇帝はユスティニアヌス帝という人物で、西ローマ帝国の滅亡後はローマ帝国の正式な後継国家として「ローマ法大全」の編纂をおこなったり、世界遺産にもなっている「ハギア=ソフィア聖堂」の建造も行なっています。

しかしその後は外部勢力の侵攻に悩まされるようになり、ササン朝との抗争や、中東で勢いを増していたイスラーム勢力のセルジューク朝による侵攻、13世紀には同じキリスト教を侵攻していたはずの十字軍にコンスタンティノープルを占領されてしまうなど、帝国はどんどん衰退していって、最後はオスマン帝国によって滅亡することになります。

はい、ということで、今回はここまでにします。大分濃密なパートだったんじゃないでしょうか。やっぱりローマの歴史というのは、この先世界に影響を与え続けるヨーロッパの国々の基礎を作り上げた存在なので、政治の舵取りの難しさであるとか、キリスト教への対応みたいなヨーロッパならではの動きをここで知るのは、その後の世界史を理解する上でめちゃくちゃ重要です。この頃のあーだこーだがあって後の大航海時代に繋がってくわけですからね。

日本の歴史と違うのはやっぱり「外敵が常に攻めてくる」ということ。自分達の国が落ち着いてきたと思ったらすぐ周辺の国に攻められて、負ければ支配下に置かれて混乱。勝ったら勝ったでその後の主導権争いでトップが揉めて混乱。もうそんなことの連続なので、どうしても戦争は激しくなりがちだし、政治も巧妙になりがちなところがあるんですよね。キリスト教が公認された後の各国の癒着もすごかったですよね。巨大な影響力は徹底的に利用して、内にも外にも力を示すこのやり方もヨーロッパの大きな特徴だと言えます。

さて、次回は古代ヨーロッパの歴史の最後のパート、Chapter4「〜教会の分裂と十字軍〜」ついて解説していきます。ローマの歴史で信者を一気に増やしたキリスト教は、その後圧倒的な影響力を誇示し続けて、一時は国の王すら従えるほどの権力を持ちます。しかし、次第に金と権力にまみれて腐敗が続けていき、十字軍遠征をきっかけに権威は一気に失墜していきます。そんな中、民族移動によって建てられた国はそれぞれ独自の歴史を歩んでいって、ついに現在のイギリス、フランス、スペインなどの王国が出来上がります。特にイギリスとフランスは歴史上何度も喧嘩してるんですが、その始まりもまさにここからです。これについてもできるだけ分かりやすく解説しようと思います。

ここまで見てくださった皆さん、今回結構長かったので全部頭に入りきらなかったという方もいると思います。それで構いません。1回で全てを覚えられなくても全然大丈夫です。何度も何度も見直して少しずつ理解してもらえれば十分なので、一緒に学んでいきましょう。

最後までご視聴ありがとうございました。次回もお楽しみに。

それではまた。

参考文献:『一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書』

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