アルムの書斎

【ざっくり世界史解説】

chapter4

〜教会の分裂と十字軍〜

ざっくり世界史解説

どうも、アルムです。

ということで今回は「ざっくり世界史解説」のChapter4「~教会の分裂と十字軍~」について紹介していきたいと思います。

前回は「ローマ帝国の誕生と民族移動」について話したんですが、改めて軽くさらっておきましょう。

ギリシア世界の発展と同時に勢力を強めていたのがローマ帝国だが、初期の頃は王や皇帝がいない共和政が行われていた。平民が「貴族だけで政治すんな」という声上げたことで、貴族と平民とで身分闘争バチバチやるが、結果的に平民の参政権は少しずつ向上していったと。ここまではアテネの時と全く同じ流れだったが、ホルテンシウス法という「平民会が決議した内容は元老院の承認を得ることなく国の法律になる」という制度が作られたことから潮目が変わり、平民は自由に法律を作れるようになったんだけれども、国の指導権は貴族中心の元老院が握ったままだったので、平民によって作られた法律は貴族にとって都合のいいように運用されてしまう。これによって「法を作る平民側」と「法を運用する貴族側」とで対立が余計に深まってしまうと。

内輪揉めが続いてたローマだったが戦争では成果を上げることができ、ポエニ戦争ではライバル国だったカルタゴに勝利したことで支配領域を一気に拡大することができた。

しかし、戦争には勝ったものの、ローマ本土は戦場になっていたことで荒廃し、農民が農業を再開するのが難しい状況だった。加えて、お金持ちは戦争で獲得した奴隷達を買い占めて大規模農園で働かせることで農業を再開できてしまっていたので農民はもはや対抗できなくなり、環境改善を訴えて内乱が各地で発生してしまうと。この内乱は1世紀近くも続き、ローマは共和政では国を維持できなくなるほど混乱する。

状況をなんとか変えなきゃいけないということでローマは政治の仕組みを変えて、国内で強いリーダーシップを執れるような3人を擁立してその人達に政治を託そうということになる。これが「三頭政治」というもの。三頭政治は第1回と第2回が行われることになるが第1回では圧倒的な人気と実力を持ったカエサルが3人のうち最も権力を持ち、国を統治しいていく。しかし、死ぬまでは一生トップでい続けられる「終身独裁官」という役職につこうとしたことで共和政を維持したい勢力から一気に反発を喰らい、最後は最も信頼していたブルートゥスにも裏切られたことで暗殺されてしまうと。

カエサルの死後、第2回の三頭政治が始まるが、3人のトップはいずれも協調できずに対立。そのうちトップの一人だったオクタウィアヌスとアントニウスが戦争を起こしてしまい、オクタウィアヌス側が勝利したことで彼は絶対権力者になり、尊厳者「アウグストゥス」として、独裁で国を統治していくと。ここから本格的にローマの帝政の時代がやってくる。

アウグストゥスの後は五賢帝の時代になり、ローマに平和が訪れ、交易も盛んに行われるようになるが、その後は軍人帝国時代に入り財政不振による不安定な時代が続くと。

再びローマを仕切ったのはディオクレティアヌス帝という皇帝だったが、統治を円滑に進めるために「皇帝=神として礼拝しろ」という趣旨の「専制君主政」というのを始めたことによって権力を一気に集中させることに成功した。彼は国内を治めるにあたり、ローマ帝国があまりに広すぎたために国内を東西に分割して統治することを決める。これでなんとかローマは安定するが、この頃台頭していたキリスト教に対しては迫害も行っていた。

後を引き継いだのはコンスタンティヌス帝だったが彼はキリスト教に対しては寛容な姿勢を向け、「キリスト教を自由に信仰してもよい」という「ミラノ勅令」という命令を発表。これによって徐々に増えていたキリスト教がローマ全土に広がることになる。

その後はテオドシウス帝という皇帝に引き継がれるが、広大なローマの帝国の維持にとうとう限界が来たことで、ローマの財政は破綻。改めて帝国を東西に分割することになる。そしてこの後、ローマが一つになることはなかったと。彼はキリスト教の優遇を一気に進め、「キリスト教以外の宗教の信仰は認めない」という「キリスト教の国教化」という段階まで踏み込む。これを機にキリスト教の権力は圧倒的に高まっていくと。

ローマ分裂後は中世の時代がスタートするが、その最初に起きた大きなイベントが「民族移動」。最初は「ゲルマン人の大移動」から始まり、4世紀後半になってフン族からの攻めを受けてゲルマン人がヨーロッパ全土に散っていき、移住先で次々に国が作られていくと。中でも現在のフランスで建国されたフランク王国が中心勢力になり、カール大帝の頃には現在のドイツ、フランス、北イタリアをまたぐ巨大帝国が築かれることになる。しかし皇帝の座を孫達に引き継いだ後は孫同士で主導権争いが起きてしまい、広大だったフランク王国は3分割されるようになると、これらの国が後のドイツ、フランス、イタリアのルーツになっていくと。

その次に起きたのが「ノルマン人の大移動」。北ヨーロッパから民族移動が始まり、北欧諸国やフランス西部などに次々国が作られていく。

最後は「スラヴ人の大移動」。これは東ヨーロッパを中心とした民族移動で、ロシア人やポーランド人、セルビア人達による国が作られていくと。

ローマが東西に分割された後、東側で繁栄を誇ったのがビザンツ帝国。これは現在のギリシアのルーツになっていて、民族移動が西に比べて少なかったことも影響して、約1000年もの間永らえることになる。最盛期の皇帝はユスティアヌス帝という人物で、商業や貨幣経済が発展する中、ローマ帝国の後継国家として「ローマ法大全」の編纂をおこなったり、世界遺産の「ハギア=ソフィア聖堂」の建造に尽力した。

しかしその後は外部勢力の侵攻に悩まされ、イスラーム勢力のセルジューク朝に侵攻や、同じキリスト教を侵攻しているはずの十字軍から首都を占領されるなどして衰退。最後はオスマン帝国に滅ぼされてしまうと。

はい、ざっくりとですがこんなところまでを解説しました。前回少し長かったのでね、まだ覚えきれてない方も多いと思うんですが、無理して覚える必要はありません。まずはこの世界史解説を全て一通り見た後、必要に応じて繰り返し覚えていただければ十分です。人物や出来事の名称なんかよりも「ストーリー」が大事なので、そこだけ意識していただけば大丈夫です。

さて、前置きが長くなってしまいましたが、ここから本編に入っていきたいと思います。今回の解説は記事にもなってますので先に知りたい方は概要欄のリンクからご覧ください。

まずは教会の分裂の話です。早速いきましょう。

キリスト教が誕生してからローマの分裂に至るまで、キリスト教は「カトリック」と「ギリシア正教」という2つの宗派に分かれます。宗教について話すときは大抵の場合、この話が出てきます。なぜ同じ宗教を信仰してるのに宗派が分かれてしまったのか。キリスト教においてそれはローマの分裂が始まりです。

ローマ帝国が末期の頃、帝国はそれまで弾圧していたキリスト教を保護するようになります。これは前回お話しした通りですね。保護されたキリスト教は国内の都市に大きな教会を置くようになるんですが、そのうち最も中心的な勢力だったのが「ローマ教会」と「コンスタンティノープル教会」です。この2つの教会はキリスト教世界の主導権をかけて競い合っていました。

しかし、ローマの財政不振によって帝国が東西に分裂することになると、ローマ教会は西ローマ帝国、コンスタンティノープル教会は東ローマ帝国の保護下にそれぞれつくようになります。なんで保護下になんかつく必要があんの?ってことなんですが、キリスト教というのは宗教なので、極論すると「別になくてもいい」わけですよ。例えば商売を続ける人がなぜいるのかと言ったら、モノを作ることによって利益が出る。利益が出れば自分の生活は豊かになるし、生活が豊かになればもっといいモノが作れて売れるようになる。だから商売を続ける、っていう感じで、全ての人にとって明確なメリットがあるわけですよね。なのでお金を集めやすいわけです。

でも宗教の場合は、あくまでも精神の豊かさを与える存在なので、最初から精神が豊かな人にとってはぶっちゃけ必要ないわけですよ。その上、精神が豊かになりさえすればそれで良いわけなのでお金もあまり使う必要がない。なので全ての人に信仰するメリットがあるかと言ったらそうではないんですね。だからお金は集めにくいわけです。

とはいえキリスト教の祭司として活動してるのは同じ人間ですから彼らにもお金は必要です。しかし自分達だけではお金が集められない。そこで国の保護を受けるわけです。

キリスト教はいわば「精神世界の権威者」ですけど、教会を建てたり、布教活動をするためには、国のような「現実世界の権威者」にスポンサーをやってもらってその保護下につくってのがどうしても必要だったんです。

しかし、東西に分裂して間もなく西ローマ帝国が民族移動の影響で崩壊してしまったことで、保護を受けていたローマ教会はスポンサーを失うことになります。スポンサーがいなくなると教会は活動できませんから、ゲルマン人達が建てた新しい国にスポンサーになってもらえるよう布教を行います

ところがこれが中々上手くいかないんですね。というのも、ゲルマン人はそれまでローマ帝国に住んでた訳ではないのでキリスト教をいきなり信仰しろと言ってもピンとこないわけですよ。しかも国ができたばっかですから宗教なんかより政治や経済に時間を割かなきゃいけないわけです。そうすると布教が難しくなって信者が中々獲得できない状況になります。

じゃあどうしようか?と言ってローマ教会が行ったのが「聖像」を使った布教です。聖像というのは聖なる像のことですね。要するに磔にされたキリストの像を使って布教することで、弱者のための宗教であることを分かりやすく伝えようとしたわけです。これ今の僕達からすると、「え?それの何が問題なの?」ってなるんですが、実はこれ問題あるんです。

当時のキリスト教はまだ「宗派」というものができてませんでしたから、信仰の仕方はみんな一緒だったんですね。その信仰の仕方の中に「偶像崇拝の禁止」というルールがあったんですよ。これは「キリスト教の信仰に聖像とか絵は使うなよ」っていうルールです。キリスト教の侵攻する神というのは唯一絶対の完璧な存在だから、ビジュアルを使って安易なイメージを広めることはやめましょう、ということになってました。これをローマ教会は破ったわけです。

禁じ手を使ったローマ教会の布教は瞬く間に周辺国に広がり、ライバルだったコンスタンティノープル教会は「よっしゃ!潰すチャンス!」と思って、保護下についていたビザンツ帝国の皇帝に進言し、皇帝によって「聖像禁止令」というのが出されます。ローマ教会はそれまで聖像で獲得していた信者にいきなり「聖像は使うな」なんて言ったら、キリスト教の一気に信用低下しますよね。それは嫌だということで、ローマ教会とコンスタンティノープル教会は対立し、ローマ教会は「カトリック」、コンスタンティノープル教会は「ギリシア正教」と宗派が作られることになります。

宗教についての知識がない僕らからすると「聖像で布教しても良いじゃん、その方が分かりやすいんだし。認めれば?」ってなるんですが、これ言ったら「伝統を守りたい人」と「新しいやり方を取り入れたい人」同士の対立ともいえるんんですよ。例えば今の日本で言うと「全部のスーパーはもうレジなんか無くして、監視カメラとAIで店内を管理しながら決済はアプリで行えば人要らないんだから、そっちの方が良くね?」と、テクノロジーの導入で業務を効率化した方がいいと考える人もいれば、「人雇ってる方が安いから」と言う理由でいつまでもやり方を変えない人もいるわけじゃないですか。そういう、「テクノロジーを取り入れたい人」と「テクノロジーを取り入れたくない人」の対立みたいなものと状況は近いです。

これまでも聖像はダメだったんだからこれからもダメだろと言う人と、いや聖像でも良くないっすか言う人たちの対立。これが教会の分裂です。

さあ、そうして教会が分裂した後、ギリシア正教はビザンツ帝国の元でしばらく続くんですが、カトリックは西ローマ帝国に代わるスポンサーを探さなければいけませんでした。そんな矢先、新しくメロヴィング朝を始めたフランク王国がカトリックに改宗したという情報が入ります。これがカトリックにとって好都合でした。スポンサーの当てがなかったところに急にカトリックを受け入れる国が見つかったわけですからね。これによりカトリック教会はフランク王国にすぐさま接近し、フランク王国の保護下につくことに成功します。

ところが、前回も解説した通り、フランク王国はカール大帝以降早々に分裂しまして、国内は今ひとつ不統一な状態になってしまいました。後ろ盾を探していたカトリックなんでしたが、この辺りから「もう教会の方が偉いんじゃね?」という雰囲気が国内に広まっていたので、結果的にカトリック教会が西ヨーロッパ最高の権威者となってしまいます。

権威を得たカトリックは、10分の1税という制度を施行して農民から税を取り立てて経済力をつけると、教会の聖職者が諸侯と並ぶほどの大領主になり、精神だけじゃなく現実世界にも影響力を持ち始めます。しかし、これを契機としてカトリック教会は次第に金と権力で腐敗していくようになります。

腐敗した教会をもう一度引き締めようということで当時の教皇グレゴリウス7世という奴が動き出します。権威に胡座をかいていた教会は、司教や大司教のような「聖職者」は賄賂を使えば簡単になれるという、「聖職者売買」というのが横行してました。教皇はこの「聖職者売買の禁止」を行ったんです。また、聖職者の任命ができるのは教皇だけであるという発令も行いました。

まともなトップがいて感心、と思ったんですが、なんとこれに神聖ローマ皇帝が反発します。「どうせまた利権がらみだろ?」と思いますね?そう、その通りです。一応皇帝には皇帝で言い分があったみたいです。

国内が不安定だった神聖ローマ帝国では、聖職者の任命を皇帝が行うことで、聖職者達に恩を売り、なんとか国内の安定が維持できていました。しかし、任命権を教皇に限定されてしまうと、聖職者に対する皇帝の影響力は弱まって一層国内が不安定になる恐れがあります。

皇帝はこれを危惧して教皇の発令に反発を起こしたんです。これを機にキリスト教の権威である教皇と、帝国の権威である皇帝とで任命権をめぐる争いが起こります。これを「叙任権闘争」と言います。

ローマ教皇は最高権力である自分に楯突いてきた皇帝が気に入らず、皇帝に対し「破門」を宣言します。「破門」というのは教団から追放するという意味です。「え?そんなんでいいの?」と素人の僕らからは思いますよね。ただこれが大問題なんです。

これまで見てきた通り、キリスト教というのはローマにおいて既に絶大な影響力を誇っていました。なので破門宣告を受けるということは教団からの追放だけでなく、「社会からの追放」にも等しかったわけです。イメージしづらい人は一昔前の日本における「ジェンダーギャップ」を想像してもらえれば分かりやすいかも知れません。ゲイやレズビアン、トランスジェンダーといった自分の性別と性的指向が周囲と噛み合っていなかった方達は、社会生活を送る上で長い間、差別されてきました。現在は多様なジェンダーを受け入れる仕組みが徐々に広がってそう言った差別は随分減りましたが、昔はジェンダーギャップを抱える人たちに対する差別は激しかったとされています。「破門宣告」もそれと似たようなものです。大多数はキリスト教徒なのに自分だけそうではない。しかもそれが破門によって追放された立場であるとなれば周囲からの拒絶は計り知れません。当時の皇帝にもまさにそれが降り掛かり、それまで自分に従っていた諸侯達からも、「破門された人間には従わない」ということで皇帝の地位を剥奪されてしまいます。

追い詰められた皇帝は教皇にひざまずき、「私が悪かったです。どうか破門を解いてください。」と懇願しますが、教皇も簡単には許すことなく「いや、俺に逆らった奴の言葉なんか聞かねぇから」ということで、皇帝は教皇の住むカノッサ城の門前に立ち、裸足で3日間も許しを乞うたそうです。これを「カノッサの屈辱」と言います。この事件をきっかけに教皇と皇帝の間で完全な上下関係ができてしまい、「教皇の言うことにはたとえ皇帝であっても逆らえない」と言うムードが国内に広まることになります。また教皇達は、自分に逆らおうとする動きがあるたびに、この「破門戦術」を使うようになっていきます。

さて、そんな事件もあった教会なんですが、結果だけ見ればキリスト教が成長を続けたことでヨーロッパに「統一感」が生まれたことは確かです。その一方、ヨーロッパのもう一つの個性であった「多様性」についても大きな動きが出てきます。それが「封建社会」というものです。これは簡単いうと「土地を与えて主従関係を結ぶ」という社会システムのことです。

ローマの分割と民族移動によって次々に新しい国が建てられていたこの頃は、今と違って「国境」という概念がありませんでした。じゃあどうやって国を区別していたかというと「契約関係の及んでいるエリア」までを「国」と呼んでました。この契約関係というのがまさに封建制度のことです。この当時は多くの国が主君と家臣とで主従関係を結んでいたんですが、主君は家臣に土地を与えることで自分の言うことを聞かせ、家臣は土地を貰う代わりに主君に従うという「契約」の関係ができていました。「それのどこが多様性といえるの?」と言うことですが、この関係は文字通り「契約」なので、家臣は複数の王に仕えることも可能なわけです。たとえばA国とB国がそれぞれあった場合、A国にいる家臣は当然A国の主君に仕えてるけれども、B国の主君に仕えることもできる、と言うことです。なぜなら「契約関係」なので、土地さえ貰えれば仕えるのが誰だろうが、どのくらい仕えようが問題ないからです。「じゃあA国とB国が争ったらどうするの?」と言うことですが、その場合は家臣が仕えている主君の一方からもらった土地を返上して、味方についた方に軍役を果たせばいいわけです。このように複数の国に対しても主従関係を結ぶことができたことで、国境は曖昧になり、たとえ別の国に仕えていても受け入れると言う多様性ができていったわけです。

さあ、それではここから「十字軍」の解説に入っていきましょう。名前は聞いたことがある方も多いんじゃないでしょうか?「ああなんか、パレスチナと取り戻すとか取り戻さないとかで色々やってたことはなんとなく知ってるけど、よくわからん」という方のために、分かりやすく解説していきます。

長いヨーロッパの中世において最も大きな事件ともいえるのが、「十字軍の遠征」です。どういう目的で行われたのか。一言で言うと、「イスラム教徒からイェルサレムを取り戻せ遠征」です。民族移動が落ち着いてきた頃、東の方でイスラム教国家のセルジューク朝が強大化しビザンツ帝国を圧迫してきた、というニュースが広まると、追い討ちをかけるかの如く「イスラム教徒が聖地イェルサレムを占領した」というニュースがヨーロッパをざわつかせます。イェルサレムという土地はキリスト教にとって「処刑されたイエスが復活した地」として神聖視されていたんですが、イスラム教にとっては「預言者アブラハムがガブリエルと共に昇天した地」ということで同じく神聖視されていたんですね。だからイスラム教徒からすると、聖地イェルサレムをキリスト教が牛耳ってるのはおかしいということで、イスラム教勢力が攻めにきたわけです。

ニュースを聞いたローマ教皇は当然これを危惧して、兵を集めてイスラム勢力と聖地イェルサレムを奪還せよ、ということで十字軍の派遣が決定されます。十字軍遠征は全7回、約200年間にもわたって行われたんですが、結論から言うと大失敗に終わります。やっぱり西ヨーロッパから遠いと言うことで現地に着くのにも一苦労なのに加えて、兵士たちが聖地の奪還から略奪へと目的を徐々に変えていってしまったんですね。途中「十字軍の華」と言われる第3回の遠征では、イギリスの獅子心王リチャード1世、フランスの尊厳王フィリップ2世、神聖ローマ帝国の赤髭王フリードリヒ1世が共闘し、セルジューク朝のサラディンと死闘の末引き分けに終わるという素晴らしい戦いもあるんですが、基本的には敗北するか、戦いが行われずノーカンに終わるかのいずれかでした。第4回に至っては十字軍が同じキリスト教国であるはずのビザンツ帝国に攻め入り、首都のコンスタンティノープルを占領するということまで行ってしまう始末で、教皇は激怒し、十字軍全体を破門にしてしまいます。

結局勝利できたのは最初の1回のみ。それ以外は敗北か略奪でノーカンのいずれかで散々な結果に終わりました。この十字軍の結果を受けて、ヨーロッパ全体が教皇の支配に対し疑問を抱き始めることとなります。

さて、十字軍の遠征は失敗に終わったものの、十字軍がヨーロッパにもたらした影響というのもここで触れておきましょう。

まず一つ目は、商業の発展です。よくよく考えてみれば、それまで民族移動でしっちゃかめっちゃかだったヨーロッパが外部勢力に対して軍隊を派遣できるまでなっているというのは、だいぶ国が安定していた証拠でもあります。十字軍の通り道では道路が整備されたり、付近の都市では物資が盛んに取引されるようになっていました。十字軍の通り道として特に恩恵を受けた北イタリアでは、ヴェネツィアなどの湊町が香辛料などの交易で発展したり、内陸ではフィレンツェなどが金融で発展していきました。北イタリア同士で「ロンバルディア同盟」という都市同盟も結ばれ、商業の発達が一層促されることになります。一方、北ドイツにも発展が見られ、リューベックでは木材が、ハンブルクでは穀物などが取引されていきました。「ハンザ同盟」というこちらも同じく都市同盟が結ばれたことで、都市同士の商業連携も活発になります。

さあ、十字軍による影響の2つ目、それがカトリックの権威の低下です。十字軍の大失敗を受けたことで教皇の説得力がなくなってしまったカトリックは、とうとう権威の低下に見舞われる事件に遭います。それが「アナーニ事件」というものです。十字軍の後に登場したフランスの王が聖職者に対して課税を行うということを発表すると、教皇から「聖職者に税を課すとは何事だ!」ということで、フランス王に対し「破門戦術」を用います。ところが、破門されたフランス王は、すでに教皇の権威が落ちていることは分かっていたので、「知るかそんなの」と言わんばかりに、教皇に対しての謝罪は行わず、むしろ家臣を派遣して教皇を襲撃するという策にでます。当たり前に言うこと従うと思っていた教皇は、意表を疲れて逮捕の後フランスに連行され監禁されてしまいます。その後なんとかローマに脱出した教皇だったんですが、あまりの屈辱だったのか、その後「憤死」、つまり怒りすぎて死んでしまいます。

十字軍が組織される前は「カノッサの屈辱」で教皇が国王を謝らせてたのに、十字軍が遠征に失敗すると「アナーニ事件」で今度は国王が教皇を屈服させるという、逆転現象が起きてしまいました。こういうふうにそれまでの権力者が反乱に押されて力関係が一気に変わるのもヨーロッパの特徴の一つでしょう。

教皇を屈服させたフランス王は後任のローマ教皇にも揺さぶりをかけ、教皇庁をフランスのアヴィニョンに移させ、自分の監視下に置くようになります。ところがこれにイタリアが反発。ローマの地を持っているはずの我々がフランスに教皇を監視されるという事態を受けたイタリアは、自らも教皇を新たに立てたことでフランス教皇とローマ教皇の正統性をめぐってフランスと争うことになります。

ただでさえ腐敗が続いていた上に力関係が一気に変わってしまった教会は、もう一度あるべき姿に戻そうということで、一部立て直しを訴える勢力が台頭するんですが、腐りきっていた教会は、こういった立て直し運動をむしろ「教会への批判」と捉え、異端審問や魔女裁判を行い徹底的に弾圧を加えていきました。正しくなりかけた勢力にここまで酷い仕打ちをしたことで、民衆は教会への批判を徐々に強めていき、のちの宗教改革へとつながります。

ではここからは、中世ヨーロッパの国々の動きをそれぞれ見ていくことにしましょう。十字軍遠征は失敗しましたが、王が諸侯や騎士を率いてイスラム勢力に立ち向かったことで、国全体のチームワークは高まっていくようになります。ここでは、そうして王国らしく成長したヨーロッパの各国をいくつか紹介しましょう。

まずはイギリスです。前回ウィリアム1世によってノルマン朝が開かれイギリスの王朝が始まったという解説をしたんですが、ノルマン朝はその後100年と経たずに断絶し、フランス王の家臣だった人物イギリスの王としてが新しく王朝を立てます。この王はもともとフランスに領地を持っていたため、この時点でフランスの西半分がイギリスの領土となります。その後統治を引き継いだのが、この王の息子リチャード1世です。彼は「獅子心王」と言う異名を持ち、第3回十字軍遠征ではサラディン死闘を演じたことで人気を集めますが、在位していた期間のほとんどが戦場にいたため、イギリス王としての業績はあまり多くないのが現状です。

リチャード1世の後王権を引き継いだのがジョン王と言う人物ですが、この王がそれはそれはひどい失政を重ねてしまったことで知られており、フランスとの戦いに敗れ領地を失い、教皇からは破門にされ、さらには国民に重税を課してしまうということまで行ってしまったため、国民からの支持を一切失ってしまいます。状況を危惧した貴族たちは王に対し「マグナ=カルタ」と言う文章を突きつけ、勝手な政治をしないよう釘を刺す事態にまで至ります。その後新しい王が引き継ぐんですが、この王もまた勝手な政治を繰り返したことで、シモン=ド=モンフォールという人物が反乱を起こして、議会を開いて政治について話し合うことを王に認めさせるという事件も起きました。

その後、また新しい王に引き継がれるんですが、この辺りから議会の影響力が強くなっていたことを知った王は「どうせ貴族たちが文句言うなら、始めから議会を開いて共同で治めよう」ということで、各身分の代表をそれぞれ集めて「模範議会」と言う議会を設け、議会と協調し合いながら国を運営するようになります。この「模範議会」が後のイギリスの議会政治の走りとなり、王権より議会の方が強いというイギリスの特徴が形作られていくことになります。

次にフランスです。ユーグ=カペーによって開かれたカペー朝は割と長く続くんですが、第3回十字軍遠征に参戦した尊厳王フィリップ2世が登場すると、イギリスのジョン王との戦いに勝利し、フランスの領土を奪還することに成功します。フィリップ2世の孫ルイ9世の時代になると、十字軍遠征には失敗しますが、敵のイスラム勢力に対して奮闘したことで聖なる王「聖王」の称号が与えられ、フランス王としてのリーダーシップを十分に発揮しました。そしてその孫、端麗王(イケメン王と言う意味)フィリップ4世の時代になると、聖職者の課税に反発し破門戦術をしてきたあの教皇に対立し、捕らえて連行するアナーニ事件を起こし、強行を上回る権利を再び持つことになりました。フィリップ4世の巧みだったところは教皇を拉致する前に聖職者、貴族、平民の三部会を開き、国民から支持を事前に取り付けていたことです。王による独断ではなく、国民の総意によって判断しようとしたことが王権の信頼を高めることにつながりました。

そんな具合で共に発展したイギリスとフランスですが、この2カ国がついにヨーロッパの覇権をかけて争うようになります。それが「百年戦争」です。イギリスとフランスの間にはフランドル地方という羊毛の生産地があり、両者は常にこの場所巡って争っていました。ちなみにこのフランドル地方とは、現在のベルギーを指します。またフランスのカペー朝が断絶し、次の王朝であるヴァロア朝になった頃、イギリスもフランスの血を引くために政略結婚を使ってフランスの王位継承を横取りしようと画策します。これによって両者の対立は頂点を極めます。結果から言うと、前半イギリスの勝利、後半フランスの勝利といったところです。前半はイギリス軍が連戦連勝を重ね、フランスは危機に立たされますが、後半はオルレアンの少女ジャンヌ=ダルクという16歳の娘が登場し、フランス王シャルル7世を助けたことで形成は一気に逆転。イギリス軍を自国の領土から追い出すことに成功し、戦争は終結します。

「これで外との戦いは終わり一件落着」とはならないのが世界史です。前回も言いましたが皆さん、改めて覚えておいてください。外部勢力との戦いが終わった後、自国がすぐに平和になる国なんて基本的にはありません。なぜなら、外の敵が消えたら、今度は中の敵と主導権をかけて争うからです。外の戦いを終えたら、戦いに参加していた者たちはみんな「国の主導権は自分が握りたい」と思う者なんです。それが人間です。

百年戦争を終えたイギリスでもまさに同じことが起こります。国内で有力な貴族とされていたランカスター家とヨーク家によるイギリスの王位継承をかけた争い。これがバラ戦争です。ところがこの戦争は、最終的にランカスター家の息子とヨーク家の娘が結婚するという、他の内部抗争とは珍しいドラマチックな展開を迎え終結します。こういう統一の動きがたまに見られるのもヨーロッパの大きな特徴かもしれません。

さて、続いてはスペインです。長いことイスラム勢力に支配されていたイベリア半島ではキリスト教徒がイスラム勢力を半島から追い出そうという、「国土回復運動(レコンキスタ)」が続いてました。この戦いからカスティリャ王国とアラゴン王国の2カ国が台頭することになるんですが、カスティリャ王国の王女とアラゴン王この王子が恋愛結婚したことで、スペイン王国が成立します。カトリックとして共同統治していた2人は協力してイスラム勢力と戦い、結果、イベリア半島から追い出すことに成功します。この頃、元はカスティリャ王国の一部だったポルトガルがカスティリャから独立し、その後は独自に成長していきます。スペインとポルトガルのルーツもここから始まったということです。

両国はその後、ヨーロッパの西端という「地の利」を活かし、のちの大航海時代の先陣を切ることとなります。

さあそして、中世のドイツ、神聖ローマ帝国ではどんな動きがあったのか?ここでは相変わらず、「神聖ローマ」という国名であるにもかかわらずローマを持っていないということで、ローマを保有しているイタリアへたびたび攻めに行くという「イタリア政策」を続けていました。国名からローマを外して新しいのに変えればそんなことする必要もないんですが、設立当初はローマ教皇に立ち会ってもらった手前、引けるに引けない状態だったのかもしれません。イタリア政策が続いたことで国内は不統一になり、諸侯や都市もバラバラに存在するようになりました。一時は皇帝すらまともに決まらず、「大空位時代」という皇帝不在の時代も長く続いてしまいました。

では、攻め続けられてたイタリアはどうだったか?イタリアもイタリアで多くの諸侯や都市が分裂して統一を変えていて、イタリア政策で神聖ローマ帝国から毎度毎度攻められることで大いに頭を悩ませていました。国内では「神聖ローマ帝国どうするよ?」ということで揉めていて、「もう攻められるのめんどいから神聖ローマ帝国の一部になってよくね?」とする皇帝党と、「いやいや、イタリアはあいつらとは違う国なんだから守ろうぜ」とする教皇党の2つに分かれたことで、国内の対立はさらに深まることにあります。それぞれの国の事情によって一つになるところがあったり、分裂する国があったりと、いろんな顔を覗かせる。これがヨーロッパです。

ということで、今回は以上になります。古代ヨーロッパの歴史はこれにて終了です。改めて振り返ってみると、初めはギリシア世界にポリスができて、それぞれが一緒になって戦ったり。かと思えば内部で分裂が始まったり。ローマはローマで最初は一つだったけれど、統治力の低いトップがついたり、民族移動を始めとする外部からの圧力がくるとすぐ分裂して、その上で、本当は揉める必要なんてない宗教の問題で揉めて、乗っ取ったり乗っ取られたりして。たとえ乗っ取ったとしても安心する間もなく内部抗争が始まって、やったりやられたり。とにかく日本と違い、自分とは違う国、勢力が隣にいる限り常に争いが絶えない。そんな歴史を歩んできたのがヨーロッパなんだと実感しました。ここまで見ると、現在ヨーロッパがEUという枠組みで一つになろうとしてるのも納得できます。「多様」と「統一」を持つ個性の中で常に争ってきた場所、それがヨーロッパです。この歴史を少しでも多く知ることが、これから世界の人々と交流をしていく上で必要だと感じたので、興味の湧いた方は是非ご自身でも調べてみてください。ヨーロッパの歴史は常に色々起きていて本当に飽きません。マジ面白いです(笑)。

というわけで古代ヨーロッパの歴史はここで一旦区切りをつけて、次回からは中東の歴史に入っていきたいと思います。現在最も注目を浴びている地域と言っても過言じゃない中東。アフガニスタン、サウジアラビア、パキスタン、エジプトといった世界を常に騒がせる国々はいかにして作られていったのか。そして中東の歴史を語る上で絶対外せないのがイスラム教の存在。ヨーロッパの歴史でも、イスラム勢力がイェルサレムやビザンツ帝国を攻めいったことで、十字軍の遠征が始まり、混乱していきました。なぜイスラム教はイェルサレムを攻めるのか。そもそもイスラム教とキリスト教徒の関係は何なのか。次回以降はそこについてじっくり解説していきたいと思います。お楽しみに。

最後までご視聴ありがとうございました。また次回お会いしましょう。

それではまた。

参考文献:『一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書』

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一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書 公立高校教師YouTuberが書いた (刊:SBクリエイティブ) 世界史の教科書 amazonで見る
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