アルムの書斎

【ざっくり世界史解説】

chapter9

〜和平はトップの
「人」にあり〜

ざっくり世界史解説

どうも、アルムです。

さて、今回は「ざっくり世界史解説」のchapter9「~和平は、トップの「人」にあり~」ということで、いよいよ中国の歴史に入っていこうと思います。

これまで、ヨーロッパ、中東、インドと解説をしてきまして、地域史はこれが最後のパートになります。

中国の歴史は日本でも度々登場するので、断片的に知っていることは他の地域と比べてもかなり多いんじゃないかと思います。

飛鳥時代から平安時代にかけて行われた「遣隋使」、「遣唐使」の派遣、『三国志』で有名な三国時代、「明」や「清」といった巨大王朝など、日本史との深いつながりも数多く存在します。

ところが、中国そのものがどういう歴史を歩んでいったのか、その流れまで知っている方はあまり多くはないんじゃないでしょうか?

中国史は、日本の縄文時代が始まる以前から王朝が出来ていた、長い歴史を持つ国です。同時に、国土も非常に大きいので、周辺諸国に与える影響力も絶大です。実際、中国の政治システムやテクノロジーを学ぼうと、ヨーロッパや中東など多くの国が中国に訪れていた記録があります。当然、日本もそのうちの一つです。

学校の歴史では中国は脇役としてしか登場しませんが、中国を主役とした「中国史」とはどんなものなのか、これを知るとメチャクチャ面白いです。

ここ数十年は、中国経済が爆発的な成長を遂げて、アリババやテンセントといったテクノロジー企業もどんどん登場して来ました。「アメリカとの新冷戦」とも言われるほど、経済力トップのアメリカと肩を並べて、世界への影響力は非常に高いです。

そんな現在の中国がどういう歴史を辿って来たのかを知ることは、単なる教養だけじゃなく、今の仕事にすら関わる重要な知識だと僕は思っています。なのでこれを機に、改めて中国の歴史を、ざっくりとでも学んでいきましょう。できるだけ噛み砕いて解説するので、ぜひ最後までご覧ください。

それでは早速いきましょう。

中国には「黄河」と「長江」という2つの大きな大河が流れています。どの地域でもそうですが、文明の始まりは大抵、大きな河の近くから始まることがほとんどです。中国も例に漏れず、大河の周辺から文明が起こります。

中国の北から始まった「黄河文明」では、原住民たちが次第に集落を形成していきます。この集落のことを「ゆう」と呼びます。

黄河文明が後半に差し掛かってくると、「邑」が中国各地に作られていって、次第にリーダーシップを取る大規模な邑が登場します。

この、「リーダー的存在の邑」がその他の邑を従えたことで生まれたのが、「殷」と呼ばれる王朝です。

殷王朝の面白いポイントは、まず一つに「甲骨文字」の存在です。

亀の甲羅や動物の骨に文字を刻みつけた古代文字で、「漢字の原型」とされています。

「そういえば漢字っていつできたんだっけ?」と一度は考えたことがあるかもしれませんが、実はこの「甲骨文字」がルーツなんですね。

もう一つの面白いポイントは、政治のあり方です。

殷の時代は、神への祭りがかなり熱心で、亀の甲羅や動物の骨に亀裂を入れて、そのヒビの入り方を見ることで吉凶を占うということをしていました。こういう、神の占いに任せた政治のあり方を「神権政治」というんですが、この神権政治が、殷の時代から行われていました。

日本も初期の頃は、卑弥呼に占ってもらいながら政治を進めていたり、台風や大雨などは、神の意志によって決められると信じていた時期がありました。中国はそれを遥か以前から行っていたということですね。

殷王朝の最後の王は、「紂王」という人物で、彼が、今度長く続く中国史において、「初期の暴君」になります。

絶世の美女として知られた「妲己」という女性に溺れて政治をおろそかにしたことで、滅亡したと言われています。

「酒池肉林」という四字熟語がありまして、「豪華な宴」という意味なんですが、これは、紂王が妲己との宴において、池を酒で満たし、肉をそこら中の木にかけて贅沢三昧をしたことから生まれた言葉だとされています。あまりの溺れ具合から、皮肉な四字熟語まで作ってしまった王様だったというわけです。

そんな暴虐ぶりを誇った殷王朝を倒して次に成立したのは、「周」という王朝です。

周王朝は、隆盛を誇った前半の「西周」と、衰退した後半の「東周」とで区別されます。

隆盛を誇った「西周」の時代は、「封建制」という制度を作り、土地を家臣に与えて、地方の統治を任せるという仕組みをとっていました。

「封建制」というと、ヨーロッパの歴史を解説したときも一度登場しましたね。中世の時代にできた「封建社会」です。あれは、「主君が家臣に土地を与えることで、家臣が軍役を果たす契約関係」でした。大きな特徴として、「契約を別々に結べば、複数の王に仕えてもいい」というのがありました。

ところが、中国の「封建制」は、ヨーロッパとは違って、「血縁者にのみ土地を与えた」のが特徴です。

王は血縁者に地方の統治を任せて諸侯にし、諸侯も血縁者の家臣に土地を与えることで安定を図りました。

簡単にいうと、「軍事は家族だけで行う」ようにしたわけです。

こうして結束を強めた西周は、中国内で影響力を強めていくんですが、皮肉なことに、この周王朝も、トップが美女に溺れたことで滅亡していきます。

殷や周のように「美女に溺れたことで国が滅亡していく」というパターンは、この先の中国史でも度々繰り返されるようになります。ついにはこうした故事から「傾国の美女」という言葉まで生まれているんですね。

個人的には、ここが今までの地域史と大きく違うポイントかなと思います。これまでの国は、トップが政治を怠るということは何度もありましたが、私生活と政治は自然と切り離していた印象があります。ところが中国の場合は、私生活と政治の結びつきがかなり強いらしく、しかも国を治めるときは常に一人のトップだけなので、トップが私生活で悪い方向に進むと、国全体もそれに釣られて悪い方向へ進むということがあるようですね。

さて、そんな調子で周王朝が崩れていくと、それまでまとまっていた中国は次第に乱れ始めます。ここから約500年間、中国史では初の戦乱時代となる「春秋・戦国時代」が幕を開けます。

「春秋時代」と「戦国時代」ではそれぞれ個性が違っていて、「春秋時代」の場合は、ひとつ前の「周王朝」を尊重する傾向があったため、「周王朝を異民族の侵略から守る」という名目で「周王朝で一番強い奴を決める」戦乱状態が発生しました。こういう、「それまでの国のあり方を重んじて、異民族から守る」動きのことを「尊皇攘夷」と言います。日本史でも度々この動きが見られますね。

その「春秋時代」の尊王攘夷も薄れていくと、とうとう各地で戦がわんさか起こる「戦国時代」に入ります。

春秋時代から戦国時代へ転換した原因は、大きく3つ。

まずひとつ目は、「下克上」です。

春秋時代に有力国だった国が家臣達に乗っ取られたことで、「韓・魏・趙」という3つの国に分裂して、下の者が上の者を倒すという弱肉強食の時代が作られます。

2つ目の原因は「鉄製農具の使用」です。

時代が進むごとに、青銅器の農具から鉄製の農具に置き換わったことで、生産力が向上していき、その向上に合わせて、生産物をめぐる争いが激化していくんですね。

鉄製の道具というと、中東やインドの解説をした時も同じ流れが起こっていましたね。

中東では、「ヒッタイト人」が世界で初めて鉄を作ったことで、武器や農具が一気に鉄製に置き換わって、生産性が向上していきました。ただ、同時に貧富の差が拡大したことで、「イスラーム教」という、信者の平等を第一に掲げる宗教ができたんでした。

一方インドでも、アーリア人が暮らし始めた「ヴェーダ時代」の後半に人々が鉄器を使うようになったことで、生産性が向上して、その結果生まれた貧富の差はむしろ肯定するような形で、「ヴァルナ制」という身分制度を敷いたんでした。

この頃の中国もこれらの地域とまさに同じ道をたどって、生産性の向上と同時に「少しでも有意な立場に立とう」という思惑が入り混じったことで、争いがさらに加熱していきます。

最後の原因は「青銅貨幣の誕生」です。

農具が青銅器から鉄製に置き換わったことで、それまで使っていた青銅器を、なんと「貨幣」として使うようになるんですね。

なぜ青銅を貨幣にしたかというと、単純に「見た目が良かったから」です。

青銅には、黄金のような光沢があったため、貨幣として流通させるにはもってこいだったんですね。これ以降、「青銅貨幣」は富として蓄積されるようになり、その奪い合いが激化していきます。

貨幣の誕生というと、中東でも同じ動きがありました。リディアが作った「世界最古の金属貨幣」です。この貨幣の存在が、中東の商業をさらに活発化させていったことで、「鉄の使用」とダブルパンチで貧富の差が余計に拡大し、「イスラーム教」誕生をより後押ししました。

「大きな発明と同時に貧富の差が拡大することは、どの地域だろうと関係なく起こるものだ」というのが、世界史を学ぶと面白いほどよく見えてきます。発明による変化にいちいち反対しても、結果的にゲームチェンジが起こってきたのが歴史なので、現代のテクノロジーの変化に対しても、下手に反対せずに順応していくのが、「生き残る戦略」としてはいいのかもしれません。

さて、春秋・戦国時代の始まりはこれで分かったとして、時代そのものの特徴にも触れておきましょう。

春秋・戦国時代の特徴で何より挙げるべきは、「諸氏百家」の登場です。

「諸氏百家」というのは、当時現れた、思想家達の総称を指します。

彼らは、春秋・戦国の王に対して、どう国をまとめていけばいいのか、強い国にしていけばいいのかについてアドバイスをしていく、いわば「コーチング」の役割を担う存在として重宝されました

代表的なのが、「儒家」、「法家」、「道家」の3つです。

「儒家」は、孔子を祖とする集団で、「師匠と弟子」、「君主と家臣」といった上下関係が国の安定をもたらすという考えのもと、君主は「徳」を持って良い政治を行い、家臣は「礼」を行動によって示すことを重視した思想です。

「法家」は儒家の考えをさらに広げて、「君主による政治の良し悪しに関わらず、秩序を保つには「形式」、つまり法を守らせることが重要だ」と説いた思想です。

これに対して「道家」は、礼や徳のように、人の手で作られた秩序を批判して、自然に身を任せ何もしないことが一番だという「無為自然」の考えを説いていきました。

道家に関しては、のちに「乱世の生存戦略」として人々に伝えられ、「道教」という民間信仰のルーツになっていきます。

現代の日本でも、この「道教」の考えは盛り上がっていて、例えば「お金は必要以上に稼がなくていい」とか、「無理して出世を目指さなくていい」、「質素な生活をして、自分の居心地を確保することが幸せにつながる」という趣旨の本や体験談が、広く受け入れられるようになってきています。

資本主義の世界では、「お金を稼ぐことで幸せなれる」という考えが一般的なので、道教の教えは一見「世捨て人」のように見えるんですが、テクノロジーと社会保障が普及しきった現代においては、無理にお金を稼がなくても生活はしていけるし、娯楽や人とのつながりは十分に満たせるということで、仕事や人間関係に悩む人にとっては「もう一つの生き方」として支持を集めているようです。

さて、長い春秋・戦国時代を過ぎて、中国全土を統一したのが「秦王朝」です。

秦では、「始皇帝」と呼ばれる人物が乱世を勝ち抜いたことで、トップに上り詰めます。「中国初の統一王朝」です。

始皇帝は、それまでバラバラだった中国を一つにまとめようと、改革を次々に進めていきました。

まず、貨幣や文字、重さや長さの単位など、国ごとにバラバラだったこれらの要素を統一していきます。例えば、貨幣は「半両銭」、文字は「篆書てんしょ」にするなど、統一された国家を効率よく管理していけるような仕組みを整えました。

次に、以前までは血縁のみで国を統治していた封建制を廃止して、「官僚制」の仕組みを導入します。血のつながりに関係なく、「公務員」の役職を作るとともに、全国を群と県に分割して守らせることで、中央集権国家を築いていきました。

始皇帝は、国を治めるにあたって「法家」の思想を取り入れたので、国全体を法治国家にすることを目指しました。一方、儒家のような「徳と礼が大事だ」などと説く集団は徹底して弾圧し、儒家の本を焼き捨てたり、儒家の思想家を穴に埋めて殺したりしたとされています。この、始皇帝による儒家の弾圧を「焚書ふんしょ坑儒こうじゅ」といいます。

なぜそこまで儒家を弾圧したのか?原因は、儒家の教えにある「徳」についての考え方です。

「君主は徳を持って、良い政治を行うことが大事だ」と説く儒家は、簡単にいうと「君主もいい政治をやれ」と言ってるのと同じです。これが極端化すると皇帝批判につながりかねないということで、始皇帝の逆鱗に触れ、弾圧されてしまったわけです。今考えれば、政治は「批判されてなんぼ」、むしろ国民が監視して、批判の姿勢を常に保つことが大事なので、弾圧するべきではないんですが、当時は政治の仕組みがまだ探り探りだったので、トップの命令が批判されて、また国が乱れることを恐れたのかもしれません。

「トップの思想と相容れない考えを持つ奴は容赦なく弾圧する」流れは、ヨーロッパの歴史でも触れた「異端審問」や「魔女裁判」と傾向がすごく似ています。

あの時も、十字軍遠征に失敗した教皇が、その後アナーニ事件で監禁されて、ヨーロッパの各国が教皇を勝手に擁立していった際に、キリスト教の正しいあり方を説いていた集団が一斉に弾圧されていきました。

正しくあろうとしても、結局殺されてしまっては元も子もないので、もし現代で似たような目に遭ったら、批判の機会を伺うか、相手の勢力を内側から仲違いさせるなどして、外堀から埋めていった方が良いのかもしれません。

こうして、始皇帝による改革は次々に進められていったんですが、あまりの急な変化に、民衆はついていけなくなり、やがて社会の反発を招いてしまいます。

城の建設や道路の建設などを手広くやりすぎたせいで民衆は苦しんでいき、税の支払いも、少しでも遅れればすぐに処罰されます。

そうして募った民衆の不満は、ついに、あるとき爆発します。それが、「陳勝・呉広の乱」と呼ばれる大反乱です。

当時の秦王朝は、遅れたら死罪という法があったのですが、農民達が城の警備の任を受けたある日、大雨の影響で到着の期日に遅れることになってしまいました。

遅れたらどんな理由だろうと死刑ですから、到着したところで殺されるだけです。そこで、農民の中の陳勝と呉広という人物が、「どうせ殺されるぐらいなら、反乱を起こそう!」ということで挙兵したんです。初めは少なかった反乱集団も、一月後には数万人規模にまで膨れ上がっていました。

この反乱が口火となったことで、各地で挙兵の動きが次々に見え始めて、秦王朝は、成立からわずか15年で滅んでしまいました。

この「民衆に対して厳しい政治を行う国家が早死にする」という流れは、中東の歴史でもやった「アッシリアによるオリエント統一王朝の滅亡」と全く同じです。アッシリアは、中東を初めて統一した国家ですが、抵抗する国家を徹底的に破壊したり、支配に逆らう民衆を容赦なく虐殺したりと、メチャクチャな政治を行いました。その結果、反乱の気運を高まらせてしまい、短命の王朝に終わっています。

繰り返しですが、どの地域、どの民族の国家だろうと、同じ過ちをすれば同じ結果になるというのは世界史を知ると本当に多く出てきます。類似点を見つければ見つけるほど、流れがつかめて、記憶に残りやすいので、気になる方はぜひ、世界史を学び直してみることをオススメします。

さあ、相次ぐ反乱の末、次に建てられた王朝が、「漢王朝」です。

漢王朝は、一度成立したのち、一旦消滅して、再び漢王朝に戻るため、前半の漢王朝を「前漢」、後半の漢王朝を「後漢」と区別します。周王朝のときと似てますね。

新たにできた漢王朝は、急激な改革を進め過ぎた秦王朝を教訓に、官僚制を都周辺だけにとどめて、地方の統治は重臣達に一任する「郡国制」という仕組みをとります。

前漢の黄金期は、7代目の「武帝」という人物が即位した時だったんですが、武帝が亡くなった後は、皇后の親戚や「宦官かんがん」という役職の者達が政治に口を出すようになります。

「宦官」というのは一言で言うと、「皇帝の私生活を世話する人々」のことです

そんな者達がなぜ政治に口を出すのか?これは、宦官が「生殖能力を奪われた男だから」と言うのが関係しています。

実際に去勢をした、ということではないんですが、皇帝の側に仕えている以上、彼らは皇后のような位の高い女性や、その皇后に支える女官達と日々顔を合わせることになります。

もし宦官が、皇后や女官と男女の交わりを起こしてしまうと、皇帝の周辺で面倒事ができてしまいます。場合によっては、皇帝の権威そのものを損なう恐れもあります。そのため彼らは、皇帝に仕えているうちは、実質的に「生殖能力を奪われた男」になってしまうんです。

「子孫が残せないと、後世に何も残せないまま死ぬことになる。だったら生きてるうちにとことん権力を振るって、贅沢をしたい」と考えるようになり、皇帝のそばに仕えているという立場を利用して、政治に口を出すようになっていったんです。

こうして、徐々に衰えていった前漢は、その後「王莽」と言う人物に、一時は帝位を奪われます。ところが、王莽の行った政治があまりに杜撰だったため、「赤眉の乱」という反乱で新しく建てられた王朝はすぐに滅ぼされてしまい、再び漢の時代に戻ります。ここから「後漢」の時代です。

後漢王朝は、当時のヨーロッパの強国だった「ローマ帝国」と並ぶ2大帝国として存在し、西のローマ、東の後漢として東西で交流していったことで、その間にある中東やインドも栄えていきました。

ところがこの後漢王朝も、前漢の時と同じく、「宦官」の存在と外戚によって、次第に支配されていくことになります。

後漢の皇帝は初期は30代の人物が多かったんですが、次第に即位の年齢が下がっていき、15歳にも満たない未成年が次々に即位してしまったことで、実権は全て宦官や外戚に奪われてしまいました。

側近による支配が長く続いてしまったことで、ついに各地で反乱が起きてしまい、「黄巾の乱」を始めとして、数々の群雄が台頭していきました。ここから中国は、再び戦乱の時代に入り、「三国志」が幕を開けます。

「三国志」といえば、ゲームの『三國無双』やアニメの『一騎当千』など、さまざまな形で見聞きしたことのある名前です。実は、ゲームやアニメなどの三国志は、後世になって現れる明時代の小説『三国志演義』がベースになっていて、史実とは若干異なる部分もあるんですが、それでも多くの人が中国史を知るキッカケになった時代であることは間違いありません。

黄巾の乱から始まった三国志では、各地で群雄が生み出されていきます。中でも頭角を表したのが、華北を支配した「曹操」、四川を支配した「劉備」、江南を支配した「孫権」の三人です。力関係で表すと、「曹操7・劉備1・孫権2」くらいの割合だったので、曹操が圧倒的な国力を誇っていました。

『三国志演義』では、こうした不利な状況にある劉備が、軍帥の諸葛亮孔明や関羽・張飛などの豪傑たちに支えられながら、巨大戦力の曹操に戦いを挑んでいく様子が描かれていくところに、最大の魅力があります。

のちに曹操の子供の曹丕が、帝位を譲られて「魏」王朝を、劉備は「蜀」王朝を、孫権は「呉」王朝をそれぞれ建国し、3つの王朝が立ち並ぶ「三国時代」となりました。

英雄たちが天下を争う「三国時代」は、現代の僕らからすると、中国史が躍動していく面白い時代に見えるんですが、当時の民衆からすれば、戦乱の「三国時代」は相当に苦しい時代だったようです。

民衆のほとんどが戦場に駆り出されながら、中国全土が戦場になったことで、後漢末には5500万人以上いた中国の人口は、三国時代には800万人にまで減っていたという記録が残っています。もちろん、全員が戦死したということではありませんが、それでもここまでのスケールで人口が減るということは、当時はよほどつらい時代ったんですね。

「三国時代」では結局誰が勝者になったのか?ということですが、実は勝者は、この3国のうちのどれでもありません。魏の家臣だった「司馬炎」という人物が魏を乗っ取ったことで、「晋」という王朝が新たに成立します。

戦乱を乗り越えてやっと建てられた統一王朝だったんですが、残念ながら約50年という短命に終わります。理由は、トップだった司馬炎が、天下を取って早々に、堕落した国づくりをしてしまったから。周王朝の時と似てますね。司馬炎の亡くなった後はすぐに異民族の侵入にあって、滅亡してしまいます。

中国はその後、大きな王朝が南北に分裂した「南北朝時代」に入ります。

南北朝の「北」では、5つの民族が次々に国を建てていく「五胡十六国時代」という時代が始まり、異民族が互いに争う時期がしばらく続きます。

この、混乱した北の中国を統一して新たに建てられたのが、「北魏」という王朝です。これは、異民族が中国で王朝を開いた初めてのケースになります。

一方、「南」はどうなっていたかということなんですが、南は、滅亡した晋王朝の生き残りによって、「東晋」という王朝が新たに建てられます。

このパターンは中東編でも解説した、「ウマイヤ朝の滅亡とその後」によく似ています。ウマイヤ朝は成立直後、「アラブ人優遇政策」と言って、アラビア人にだけは税金をかけないという政策を行ったことで、イスラーム教徒からの反発を喰らい、滅亡しました。ところがその後は、生き残りの王族がイベリア半島に逃げ延びて、「後ウマイヤ朝」という王朝を建てた歴史があります。

晋王朝もそれと全く同じ流れをたどって、生き残った王族が逃げ延びた末に、南で王朝を復活させたんですね。

さあ、混乱に次ぐ混乱で荒れ果てていた中国でしたが、ここにきてようやく、中国を統一する王朝が現れます。それが、「隋王朝」です。

「隋」といえば、日本史の「遣隋使」が有名ですね。飛鳥時代に、小野妹子が初めて隋への使者として赴いた時期です。飛鳥時代というと、日本史ではまだまだ昔ですから、中国の歴史がいかに長いかは、時代間で比較するとよくわかると思います。

初代皇帝は「文帝」という人物で、晋の滅亡後、300年にもわたる分裂状態を終結させました。

隋王朝は中国史全体で見るとそこまで長い王朝ではないんですが、文帝の残した政策は、のちの長命王朝「唐」の礎となるほどに優れています。

彼が行った改革は、「均田制」、「祖調庸制」、「府兵制」の3つです。

それぞれ簡単に説明すると、均田制というのは、「土地を民衆に与えて、死後返納させる制度」のことです。日本史でいう「公地公民」にあたります。

祖調庸制は、「農民に穀物・布・労働の3種の税を納めさせる制度」。

府兵制は、「農民から徴兵する制度」です。

「民衆に土地を与えて、与えられた民衆は税と兵役の義務を果たす」という明快な制度だったため、これが、のちの唐王朝にも引き継がれます。

また文帝は、学問の奨励も積極的に行っていて、役人の採用に「科挙」という試験を導入しました。それまでの王朝は、コネを重視した「推薦制」の仕組みをとってたんですが、科挙を導入したことで、コネや権力を排除した実力主義の採用方法がとられるようになりました。

文帝の後を引き継いで2代目の皇帝に即位したのは、「煬帝ようだい」という人物です。

彼が、中国史上最強の「暴君」として知られています。

煬帝の行った悪政として代表的なのが、「大運河の建設」です。

中国には、「黄河」と「長江」という2つの大きな川が流れている、というのを最初に伝えましたが、煬帝は、「この2つに分かれた大きな川を運河で結んでしまおう」と考えます。

黄河と長江は、いずれも中国の文明を発達させてきた重要な場所ですが、2つの川の距離はあまりにも遠いので、簡単に「結ぶ」と言っても、その実現はかなり困難です。実際、これまでの皇帝たちも、この大運河の建設を構想したことはあったそうなんですが、莫大な予算と人手がかかるため、なかなか実行できなかったんですね。

これを煬帝はやってしまったわけです。

予算を莫大に注ぎ込みつつ、人手の確保のために女性や子供にまで過酷な労働を強いてしまいました。結果的に大運河は完成することができたんですが、手段は選ばない強引な政治を貫き通したことで、各地で反乱が起きてしまい、隋は短命で滅亡してしまいます。

ただ、大運河が完成したことで、のちの王朝はここを物流の手段として大いに活用していくことになるので、暴君といえども感謝すべき点が多いもまた事実です。

さあ、隋の遺産をフル活用して、中国史に残る長命王朝を築いたのが、「唐王朝」です。期間にして約300年の王朝になります。

初代皇帝の「李淵」から、2代目の「李世民」、3代目の「高宗」と、実に20人以上も皇帝が引き継がれました。

唐による政治機構は周辺諸国も模範とするほど高度なもので、日本でも「遣唐使」という形で使者を送り、何度も学びに行っています。

唐の政治機構がどれほどのものだったのか。それは、中央の最高機関である「三省」と、行政機関の「六部」による運営です。

「三省」というのは、簡単にいうと「皇帝の命令を作成して、実行するまでの機関」のことをいいます。3つの役所にそれぞれ役割分担がされていて、ここが機能することにより、唐全域に皇帝の命令を行き渡らせることができます。

中でも、「門下省」と言う役所が重要で、ここは「皇帝の命令を審議する機関」としての役目があります。つまり、「いかに皇帝の命令であっても、門下省が許可しない限り、命令は実行しない」という機関です。

これまでの王朝と一線を画すのがまさにここになります。

これまでの王朝は、皇帝による命令がいかに無茶だったとしても実行されてしまうようなシステムでした。ところが、唐が作り上げた「三省」が機能することで、例えば、始皇帝や煬帝が行ったような無茶な政策は、一度篩にかけることができます。皇帝の独断だけじゃなく、政府高官による総意だと判断できてようやく、政策を実行に移すことができるというわけです。

「独裁」と「民主主義」の間を成すようなシステムは、当時のヨーロッパや中東でも生まれていなかったので、周辺国が学ぶにくるのも頷けます。

土地や兵の制度に関しても、隋の頃に完成した3点セットを駆使して、刑法と行政法によって国を統治する「律令制」がとられたことで、国の秩序はさらに守られていきました。

そんな具合で、「三省六部」と「律令制」の政治システムがうまくいっていた唐王朝だったんですが、中盤に差し掛かると、そのシステムに陰りが見えてきます。

最初に崩れたのは3点セットのうちの一つである「均田制」です。

さっきも言った通り、均田制というのは、土地を等しく民衆に与えて、死後返納させるというのが原則です。ところが、その与えられた土地を、貴族や大寺院が次第に横取りし始めてしまうんですね。民衆の方も、国に税を払うより貴族や寺院に小作料を支払う方が負担が少ないと分かると、徐々に土地を放棄し始めてしまいます。

こうして貴族や寺院の私有地、いわゆる「荘園」が成長してしまったことで、均田制が崩壊してしまうんですね。

均田制が崩れると、他の2つの制度も足場を失うように崩れていきます。

祖調庸制は、民衆に与えた土地が「戸籍」としても機能していたので、均田制が崩壊すると、戸籍の管理ができなくなり、税が徴収できなくなります。

このため唐王朝は、戸籍に関わらず、実際に所有している土地や財産を基準として税を取る制度に切り替えて、均田制と祖調庸制のつながりを切り離すことを余儀なくされます。

府兵制に関しても、民衆の戸籍を利用して徴兵する制度だったので、均田制が崩壊すると徴兵もできません。そのため、徴兵ではなく、募集によって兵を募る方法をとるんですが、これが実は、悪手になってしまうんですね。

国のために命を捧げるような士気の高い兵士が集まってくれればいいんですが、集まった兵士のほとんどは、「仕事も土地もないから、しょうがなく兵士でもやるか」というモチベーションの低い兵士ばかりでした。

このような兵士を率いて戦うには、相当の統率力が必要です。そこで唐王朝は、辺境の防衛を務めてきた武人や異民族を「節度使」という役職に任命し、募集した兵を率いさせて地方の防衛にあたらせました。

3点セットは崩れつつもなんとか持ち堪えたような唐王朝でしたが、この節度使が地方で徐々に影響力を強めていったことで、のちに唐王朝への反乱を起こすようになってしまいます。

皇帝による治世にも乱れが出始めます。6代目の皇帝として即位した「玄宗」という人物は、人を見抜く能力が非常に優れていたため、初期の頃は優秀な部下を置いて、唐を繁栄させていきます。

ところが、ここで「傾国の美女」に嵌ってしまいます。その美女というのが、世界三大美女の一人「楊貴妃」です。

楊貴妃は玄宗の息子の妻だったんですが、玄宗が彼女をあまりに寵愛しすぎて、息子から楊貴妃を取り上げて、強引に自分の妻にしてしまいます。これによって玄宗は楊貴妃に溺れてしまい、すっかり政治を顧みなくなってしまいました。

この後、イスラーム勢力だったアッバース朝と中央アジアの覇権をかけて争った「タラス河畔の戦い」が行われるんですが、玄宗が政治をおろそかにしてしまったことも影響して、唐はこの戦いに敗れてしまうんですね。

中央アジアでの影響力が弱まってしまった唐は、先ほどの「節度使」たちによって大反乱を起こされてしまいます。これが「安史の乱」です。

玄宗はこの反乱に巻き込まれて、反乱勢力を退けながら、約8年間もの逃避行を続けます。

終いには、「安史の乱の原因が楊貴妃にある!」などと訴えてきた兵士たちの圧に負けて、玄宗自ら、楊貴妃に対して死罪を命じる有様になってしまいました。

こうして唐王朝は、成立からしばらく経った中盤から次第に崩れていき、安史の乱以降も大規模な反乱が続いたことで、とうとう滅亡してしまいます。

初期の唐で2代目の皇帝に即位した「李世民」は、成立したばかりの唐王朝を平和に治めた名君として知られていますが、彼が、自身の統治の仕方についてまとめた書物「貞観政要」には、欲に溺れそうになる李世民が、事あるごとに家臣からの諫言、つまり「お叱り」を受ける様子が綴られています。その中の一つにはっきりと記されているのが、「一度贅沢をしようとすると、欲にどんどん溺れるため、生活はできるだけ質素に努めるべし。」というものです。これは、食事や衣服、そして女性などに欲を出しすぎると、政治が手につかなくなり、暴君になるぞ、ということを言っています。

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玄宗はこう言った過去の皇帝からの貴重なアドバイスがあったにも関わらず、それを無視して欲に溺れてしまったため、結果的に唐を滅亡させてしまいました。

リーダーとしての心構えの重要さは、何千年経った今でも変わることはありません。そして、「部下をはじめとする、他人からの忠告」は、たとえリーダーの立場にない人にであっても、聞く耳を持つべき「貴重な財産」です。歴史を学べば、こうして現代にも通ずる考え方を学ぶことができるので、ぜひ知っておいていただければと思います。

ということで今回は以上です。次回は、中国史の後半ということで、唐王朝の後にできた「宋王朝」から中国最後の王朝となる「清王朝」の誕生までを解説していきたいと思います。日本史と重なる部分が前半よりたくさん登場するのもここからなので、ぜひ楽しみにしていてください。

最後までご視聴ありがとうございました。また次回も楽しみに。

それではまた。

参考文献:『一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書』

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一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書 公立高校教師YouTuberが書いた (刊:SBクリエイティブ) 世界史の教科書 amazonで見る
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